おはようございます-2-

_20180813_175008.JPG
今日は8月15日、おはようございます。
この一週間、世の中お盆のことで、あちこちと取材してまいりました。
今日は73年前に戦争が終わったという日ですね。
それらの日々のことを知らされるにつれ、心が痛みます。
ぼくは、翌年に生まれているので、よみがえるのは戦争終結後の記憶です。
遠い遠い遠い、内面に即していえば、そんな感覚です。
ここではフィクションを試みたいと思って、投稿画面を開けるのです。
なかなか腰が上がらなくて、もたもた、雑文を書いていて、これ準備体操です。
ここには嵯峨野慕情、京都北物語と書きさしの二編があるんです。
三部目西陣界隈を舞台にしたフィクションを書きたいと思っているところですが。
前に書いたさくら協奏曲に似た内容かなとも思いながら、そうではない内容で、とか。
おもうところいろいろあって、最初の一句が書きだせないところです。
京都の北西に北野天満宮がありまして、神社としてはここがポイントになる気がします。
千本の中立売から西へ円弧を描くように来ると一条通りと合流して、下の森の鳥居になった。
いまはその界隈、警察の官舎だとか上京警察署になっていて、北野天満宮はここからです。
御前の今出川に鳥居があって、ここが天満宮の境内になっていく参道です。
この天満宮を中心として、人の心が行き交う、情が交感される、という場になります。
そういう地理的な平面を背景に、人と人の模様を書いておきたいな、とおもうところです。

おはようございます

_20180809_164907.JPG
今日は8月10日、お盆にはいって、死者の霊を迎えるこの世の行事が行われています。
昨日のことですが、スマホとコンデジカメラをもって、お盆を撮りにいきました。
夢幻舞台、1983年の夏ですね、写真と文章、本にまとめました。
それ以来、この時期、お盆の時期を、ぼくは「夢幻舞台」と呼んでいます。
今朝は、調子よく、シュナーベルのベートーベンピアノソナタを聴いています。
かなりボリュームをあげて、聴いています。
流れるメロディー、ベートーベンのソナタ、ぼくのお盆に、ふさわしいと思う。
このブログを「淡水の小説と雑記ブログ」と名称変更しました。
気持ち的には18禁ではない小説を書きたい、浪漫的小説を書きたい、と思っています。
ライブドアの方でブログを作ったけれど、フェースブックと連動しないようになった。
ここなら、フェースブックに連動させることが、できています。
ソーシャルメディア側の都合で、連動しなくなったようですね、たぶん。
こちらは使わせてもらう方だから、それなりにベターな方法を選ばなくちゃ。
小説といって、どれだけのモノが書けるのか、まあ、自己満足、そういうことです。
シュナーベル演奏のベートーベン、ピアノソナタは、1965年にレコード全集を買ったもの。
いまは、デジタルデーターで、パソコンに取り込んで、聴いています。
そのレコードはエンジェル赤盤といって、赤いLPレコードの上下二巻の全集です。
いまは手元になく、ぼくが理事していたメディア図書館に寄託してあります。
年を取ると昔の話がしたくなる。
記憶を辿り、自分の存在をアピール、認知して欲しいとの欲求でしょうか。
自分の殻だというのかも知れなくて、読者なんて、いや、読者ほしいです。
今朝はここまで。


posted by awami at 06:56雑記

淡水雑記(2)-4-

_20180622_155937.JPG
掲載の写真は、平安京パノラマ、と呼べばいいのか、アスニーに展示されている模型です。
下部の真ん中が羅城門、まっすぐ伸びる道路は朱雀大路、突き当りが大極殿です。
どれくらいの時間、このパノラマに見入っていたのか、見ても、見ても、見飽きない。
京都生まれの京都育ちだから、この街に愛着を持って、過去を振り返ってみてるのかも知れない。
でも、若いころには、この京都にいるのが苦痛で、他の街に住みたいと思っていた。
他の街といえば「東京」、東の京都、首都になってから今年で150年といえばいいのか。
今年は明治150年といっているから、それまでは、このパノラマの街が首都であった。
京、という字の意味は何なのかわからないけど、都(みやこ)といえば天皇の居る処、とか。
「みや」というのは宮のこと、「こ」というのは此処のこと、詳しい方、これでいいのかしら。
言葉のルーツを研究しても、どれだけのもん、という思いがあるんだけど、学者は研究します。
ぼくは学者じゃなくて野次馬だから、ほんの興味本位で、知ったかぶっている輩です。
それにしても、ぼくの故郷は京都、それも市中、市中だけれど、北西の端っこです。
真ん中に住んでいる奴と、端っこに住んでいる奴ってのは、比較しようがない感覚だと思う。
ぼくは京都の端っこ、周辺の、縁にぶらさがっている輩だと感じているのです。
比較するなら、劣等感の塊みたいな、ひがみ根性みたいな、感覚でしょうね。
どこか、太宰のひがみ感覚と相似てるのか、でも真逆です、拠って起つ位置が真逆です。
ひとの内面を研究する学問は、心理学の領域なんでしょうか、自己の内面研究、なんてテーマ。
だれが、この自分を研究するという研究をしてるんだろう、これは文学の領域じゃないか。
小説、フィクション、物語、ナラティブとかいう語り調、そんなのを使いこなせる奴です。
それも、かなり新しい発見であって、ぼくは21世紀の潮流になるんじゃないかと、感じる訳。
先のことなんかわからない、今のこともわからない、過去のことは分かったふりができる、戯言。



淡水雑記(2)-3-

_20180724_125820.JPG
祭、これは祇園祭のワンカット、写真です、静止画です。
この写真を理解するのに、説明を加えます。
文字による説明、言葉による説明です。
つまり、文章や言葉が背景にあって、この写真が祇園祭のワンカットだと理解します。
理解するって、こういう文章は言葉の積み重ねによって、理解するってことになるんですね。
そうでない場合は、感じる、感動する、こころが揺り動かされる、これです。
でも、これも、言葉で、文章で、そのことが自分の中に定着するんですね。
文学を構成する言葉、文字、文章、文体、文脈、これらが基本にありますね。
これにモノがあてはめられる、これはペンです、ジシイズアペン、ですね。
文字文章と画像イメージを並べてみて、なにが底辺かといえば文字文章ですかね。
このことは、とっても大切なことで、イメージ、絵画や写真を理解する基本になります。
と、ぼくは理解していて、これが全てではないけれど、原語優位論を支持します。
指示しますといっても、この段階で支持するだけで、これでいいとは思っていません。
イメージがそれだけで成立することが、可能なら、それはどういう場面でそうなるか。
また、アホな、訳の分からないこと言ってる、とだれかが言っていますね。
でも、分かる人には分かる、とぼくは考えているわけです。
ベンヤミンを読んだ人、ソンタグを読んだ人、バルトを読んだ人、読んでどうした?
多木浩二氏だったか、いってましたよ、この問題、1980年代、問題提起されたの。
イメージ言語とか、イメージの羅列とか、でも、いずれも理解することは言語に拠る。
2018年です。
いま改めて、このことを問題にして、理解しませんか、原語とイメージの関係。


続きを読む

淡水雑記(2)-2-

_20180721_174310.JPG
新しいことをする、とはいってもこれまであったことのパッチワークです。
でも形は既存のシステムを組み合わせるだけかもしれないが、問題は中身です。
コンテンツといっていますが、なにをどのようにするのか、という<なにを>です。
この<なにを>を<どのように>というところに、形ではない内容が生まれるのです。
形のなかで、感覚が先に立ってくる、言葉になる前、感覚です。
この感覚っていうのが<時代感覚>というやつです。
時代感覚、よく言われるけれど、この感覚を感知するセンサーが、その中にいる人の感覚です。
実験といえば実験です。
既存の枠組みに、既存の思考方法で、価値を計測していくだけでは、いけません。
まだ価値化されていない、価値の周辺にある雑雑さを、見て、聴いて、読んで、感じる感性。
そういう感覚が生じてくる場、生じさせる無垢な人の感覚が集合する場、これですね。