嵯峨野慕情-11-

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-11-(フィクション-9-の続き)
 夏から秋になっていたから、神戸のギャラリーでお見受けしたときには黒い服を着ておられました。お顔をあわせて、ご挨拶をすると、そのお方はぼくのことを思い出されたようでした。おしとやかなしなりをお見せになるそのお方に、ぼくは、京都にお住まいだったのではありませんか、とお尋ねいたしました。
「ええ、嵯峨の美大に通っておりました、昔の事ですが」
そのときにぼくは、やっぱりこのたしなみは京都のイメージで正しかったのだ、と思います。二回目にお目にかかったこのときに、はじめてそのお方の素性のほんの少しだけを、知ることができたのです。
「ええ、わたくし、嵯峨の大覚寺の裏のところに、下宿していましたの」
「そうでしたか、なんとなく、京都にいらしたのではないかと、思ったものでしたから」
「懐かしいわ、あのころ、まだ短大の学生でしたけど、懐かしいですわ」
そのお方の表情の奥に、もう何十年かの昔の記憶がよみがえったようで、ぼくの顔をご覧になられて、嬉しそうな表情をなされたから、ぼくの心が揺れました。騒めきといえばいいか、恋した瞬間、といえばいいか。うすうす心にとめていたそのお方のことでしたが、急速に近い存在となってしまったようでした。

 行きにも通った生田神社の傍を、帰りには山手の方へ赴き、異人館のあるところ、北野町というのですかね、久々に訪れてみました。神戸の街が見えます。京都に生まれて育ったぼくには、神戸は異文化の街、港町、その街に興味を抱くのでした。そのお方がお住まいの神戸という街に、愛着以上の感情を持ってしまうのでした。そのお方のお住まいが、神戸の何処にあられるのかもわからない。戸建てなのかマンションなのか。いや、それ以前に、その方は、独り身であられるのか、ご家族が配偶者がおられて、お子様でもいらっしゃるのか、不明です。聞き出すことはできません。遠くから眺めさせていただく、そういう希薄な関係でしかないのに、ぼくは、いろいろと詮索しはじめます。詮索しはじめたといっても、なにもわかりません。学生の頃が、いつの頃なのか、わからないけれど、京都の嵯峨に二年間、下宿されていたということ、そのことがわかって、その場所を詮索に行ったところです。そのお方がご覧になられていた風景でしょうか。新しい家屋がありましたから、たぶんそのお方がお住まいだったころには、その家屋はなかたかも知れません。その場所が、その昔の昔、高貴なお方がお住まいになっていた跡だということも知りました。そのお方が、その高貴なお方の遠い遠い親戚にあたってくるお方なのかも知れません。

嵯峨野慕情-10-

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-10-
 その後は、いかがお過ごしでしょうか。昨年末までは、あなたの消息がつかめていたのですが、年が明けてからというもの、あなたの消息が途絶えてしまったように思えます。というのも、あなたがお撮りになった写真が、お仕事先のホームページを作っておられましたが、どうも最近の写真を見てみると、あなたの作品ではないことに気づきます。よく似たアングル、よく似た露出、よく似た色調、ですがあなたのお撮りになった写真ではないと思うのです。あれから何年が経ったのか、足掛け4年目になりますが、お別れして、3年が経つところですね。千日過ぎれば気持ちも変わるというように、ぼくは、ただいま、平静です。あのころの、あなたを想う気持ちは、時と共に去ってきて、千日が過ぎた。

 思い出は、あの嵯峨野の野々宮へ行った時のことでした。おみくじをして、縁結びの神さまを拝んで、それはぼくとの縁ではなくて、まだ見ぬ人への想いをもっておられたあなたが、愛おしく思えました。とはいえ、いずれ別れなければならない宿命だから、好きになっていく気持ちとは裏腹に、あなたを遠くから眺めようとしたのでした。嵯峨の美術大学でお学びになられたデザインが、お仕事になっていたのでしたね。あなたがお撮りになった写真を見せていただいて、あなたの方向性をつかんで、それが商品撮影にも反映されていて、見ればわかる画像でした。それが今年になって、画風が変わって、きっとそこを退職された、いいえ、良い人が見つかって、ご一緒にお住みになられているのかも知れませんね。あなたの元気なお子さんが、まもなくこの世にあらわれてくるのかも知れませんね。

 野々宮神社から二尊院の門前をとおって道なりにいくと、化野ってところへ出るじゃないですか。化野、あだしの、なにかしら、狐に化かされるイメージで、その界隈を歩きましたね。あのときのことです。化野は死者を葬る野であった、と書いてあるんですけど、わたし、ああ、おふたり並ばれているこの石仏、記念に写真に撮っておきます。あなたは、ぼくのより高級なカメラを持っておられましたね。撮影指導しながら、あなたの感覚が、ぼくの理解に及ばないところにあることが、それとなくわかってきて、ぼくは絶句してしまいました。そのあとは、坂を転げ落ちるように、あなたとの間に隙間風が吹いてきたのを、自覚しないわけにはいきませんでした。もし、人を想う苦悩というのがあるのなら、ぼくのそれは、まさに、その苦悩そのものだと思うのでした。それらの日々から、千日が過ぎてしまいましたね。

嵯峨野慕情-9-

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-9-(フィクション)
 そのお方が嵯峨の美術大学で学ばれたのは、もう何十年も前のことではないかと思います。お年が四十の半ばを越えていらっしゃるのではないかと推測しました。だからそのお方にとっては、二十数年前のことですね。あのとき、二回目にお目にかかった時、ぼくがそのおしとやかな身のこなし方に、京都にお住まいだったのではありませんか、とお尋ねしたら、京都に縁があった、大覚寺にはよく行きましたと、そういうことをおしゃったのでした。そのお方の話では、まだ当時は短期大学のころでした、日本画を学んでおりましたの、そのころ、嵯峨に下宿しておりましたのよ、冬は底冷えがして寒かったですね、懐かしいです、とおっしゃるのでした。日本画を学ばれたということで、いま、絵描き稼業をなさっているようにお見受けしました。いかにも絵描きといったふうに、生成りの淡いワンピースを着ておられて、おだやかな表情で、そのお方は、美人でした。嵯峨の名古曽という処に下宿しておりました、とおっしゃたので、ぼくは、数日後には、その地名を探しにその界隈を散策したものでした。大覚寺の北に位置するその区域は、少し大きめのお家が、新興住宅地の様相をもって建っておりました。そのお方の匂いが立ち込めているようにも思えて、空気を吸ってみました。幾十年もまえに呼吸された痕跡が、今にも匂ってくるようにも思え、このあたりで、そのお方が、呼吸をなさっていたのだと、想いを馳せるのでした。

 そのお方の展覧会を神戸で見ました。個展ではなくて、数人のグループ展でしたが、そのお方は少し大きめのサイズで絵を描いておられ、額装されておりました。赤が基調のアブストラクトで、潤一郎の卍をイメージ化してみたのですと、おしゃるのでした。なるほど谷崎の作品をイメージして絵にすれば、このようなイメージになるのか、とぼくはその関連を自分の中に意味づけようとしてみました。
「ご本は、お読みになるのですか」
ぼくは、淡いワンピース姿のそのお方の髪の毛が、ショートカットでボーイッシュな感じで、だから清潔な印象をもったのだと思います。
「絵を描くあいまに、短いのしか読めませんが、ぼちぼち」
「そうですか、谷崎の小説は、ぼくも少しばかり読みましたよ」
そのお方は絵画、絵の具は日本画を描く絵の具でしたが、イメージはアブストラクトで、写実ではありません。陶芸の作家、布の作家、それに絵の作家、三人展でした。神戸の港まで歩いて五分とかからないビルの一角にそのギャラリーはありました。
(続く)

嵯峨野慕情-8-

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-8-
 嵯峨野慕情という写真と文章を組み合わせた記事を書いているところですが、この先、どうしていこうかと悩むところです。記事をアップすると、アクセスが50人ほどあります。アップしないと極端に少ないです。やっぱり毎日のこと、アップしていくことが必要なんだと、思います。ぼくは書くばっかりで、人様のブログはあまり見ません。自分を発信するツールとして、SNSとは違った意味で、ブログを更新するところです。仲間内だけで共有したいというよりも、知らない人へ伝える、俗にいう読者をつかむ、ということに向けていきたいと思っているからです。出版物として書籍にして書店に並べてもらう、なんてことは遠く及ばないから、今様ツールのインターネットを使って、紙媒体からネット媒体へつないでいるのです。

 さて、あっちへいったりこっちへきたり、雑文の集積みたいになっているこの嵯峨野慕情ですが、どうしようかと思い迷うところです。読者の方、めんくらっていらっしゃるかも知れません。フィクションでもなく、ノンフィクションでもなく。フィクションでもあり、ノンフィクションでもあり、そんなのが混在している内容です。たぶん、ぼくと面識あって、このブログの記事を読んでいただいている人が数人いらして、その方を意識して、書いていこうかと思うところです。論でもないし、エッセイとかでもないし、戯言でしかないのですが、これがたぶん、現代のネットにおける、文章ではないかとも思ったりします。ここでは、気になる方への伝言、というメッセージで、読んでほしい方には届いていないだろうなと思いながら、数名の方、facebookでイイネをしてくださっている方がいらして、見えない相手から、見える相手になってきて、恐縮するところです。
 ☆
 昨日の日付で追記のつもりで書いていますが、最初から、書き改めています。いま、みちのくを旅していらっしゃる御方のことを、そのイメージで嵯峨野慕情のセクションとして書こうと思っていたところでしたが、まだ、まとまっていないから、書けない、そうなのです。嵯峨野慕情は、女子のお方の悲哀をベースにして構成していきたいと思っているところですが。ええ、嵯峨、嵯峨野に関連する御方、といってもぼくの個人的感情のなかで関連している御方のことをエッセイ風物語として、あたかも事実のように描いていけないかと思うのです。いやぁ、情緒というか、しっとり感というか、嵯峨、嵯峨野のイメージに即すイメージをかもしていけたらいいのになぁ、と思います。奇抜性は望みません、オーソドックスにしんなりと枝垂れる感じで、文章イメージが作り出せたら、いいなぁ、です。

嵯峨野慕情-7-

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-7-
 ぼくが嵯峨野にこだわる理由のひとつは、ぼくが通った高校が、嵯峨野高校だったということに起因しています。ぼくの意識レベルで、まるで故郷の意識で、この嵯峨野地域を俯瞰的にイメージしていると思うんです。生まれ育ちの場所は紫野で、いまもって紫野に住まっているから、故郷は遠きにありて思うもの、なんて感覚がわきません。でも、嵯峨野には、地理的には全く遠くではないけれど、室生犀星が言ったような故郷感が抱ける地域でもある感じがします。いくつか物語を書いていますが、その舞台は嵯峨野をイメージしてフィクションの風景にいただいています。ただ、ぼくのなかで、嵯峨野と嵯峨の使い分けをしたいと思っているのだけれど、なんとなく嵯峨野は近代、嵯峨は古代、みたいはイメージですが、うまく使い分けができません。具体的には住所地番があって、嵯峨野何々町っていう区域地番と嵯峨何々町という区域地番があるから、それに従うのが良いのも知れない。

 嵯峨といういいかたをすれが、嵯峨の名前がついた学校があります。嵯峨美術大学、今年度からこの名称になって、以前は京都嵯峨美術大学、それの短期大学でしたが、最初のころは京都嵯峨美術短期大学だったと聞いたことがあります。嵯峨野は高校で、京都府立嵯峨野高等学校です。そのむかしは女学校だったというので、ぼくが通っていたころのイメージは、なよなよしい、女々しい、男らしくない、そんなイメージでしたね。その当時にもそう思っていたけれど、いま、あらためて、そのイメージがあります。小説の底流をそのイメージにしたいなと思うところです。嵯峨美術大学に学んだという御方が何人かいらっしゃって、数名の御方、女性ですが名前が浮かびます。短期大学で学ばれたと聞いていますが、それらの方の作風というか、お人柄は、とってもしなやかな、上品な感じがしてなりません。校風というのがあるとすれば、大覚寺が経営する大学だ、というイメージにつながっているのかも知れません。

 この欄に続きの文章を書いていて、書き終わる直前で止まってしまって、時間が経って、消えてしまいました。書いた記事が、ここには載せるなというメッセージだったのかも知れないです。いや、それは、舌が滑るというか、本音を書き始めたから、パソコンの側でセーブをしてくれたのかも知れません。なので、その内容については触れないことにします。30分ほど反応がなかったので、どうしようかと迷っていたら、消えてしまったというわけ。ここ、嵯峨野慕情は、物語でもなく、エッセイでもなく、わけのわからない枠組みで文章を綴っているので、まとまりがない。フィクションにしようかとも、夢の中だったか、思ったところです。物語は、別のブログで試みているから、ここは物語ではない物語を作っていこうと思っているんです。でも、それは、通じないんでしょうね。この項は、ひとまず、ここで、終えます。