淡水雑記170626

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<自分研究について>-2-
ぼくの家族のアルバムのなかに、自分の姿が写った写真があります。ここに載せた写真は、幼少の頃のなかでも一番古い写真です。三歳までに撮ってもらった写真だと思われますが、どこかの写真館で写真屋さんに撮ってもらった一枚です。幼少の頃の写真は、これしか残っていなくて、自分が写っているという貴重な資料なのです。自分とは何か、という質問を、自分に対して投げかけることが、大人になる前の青春期から芽生えだしていたと記憶します。自分を相対化して、写真に写った自分を、自分の姿にして、光景を創り出すわけです。自分がいる風景が自分の中に生成しているのです。

自分とは何か、この問いに対する答えも、時代によっていくつかの捉え方があるように思えます。環境から作られる人間の所作、環境の中での思考方法、そういう時代の中で作られる個人が、自分にあてはめられる。簡単に言ってしまえば、こういうことになるのかと思いますが、それなが、自分という存在の核となるものは、環境あるいは個人が生きる社会によって形成される、ということなのでしょう。自分とは何か。これではわからない、解決できない、というのが現状の思いで、迷宮入りになってしまいそう。だから、自分なんていう核はなくて、その都度生成して消えていきながら変化していくものだ。

感情というものがあると思う。なんだろうか、情、情を感じる、この情ということの中身です。感覚というのもある。崩れていくような感覚とか、高揚していく感覚とか、いつも揺れ動いているように思えます。身体的な要素なのかも知れません。好き嫌いなんてことも起こってきます。好き、自分の好みに合うという感覚でしょうか。好きな食べ物、好きな異性、好きな同性、好きな感覚なっていうのもあろうかと思います。この好き嫌いがどこからやってくるのか。もちろん、自分のなかにおいて、どこからやってくるのか。無意識と仮定されるところから意識にのぼってくる感覚、あるいはイメージのことです。