淡水雑記170917

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 このまえ大八木元治さんと明石へ撮影に行きました。大八木さんは聞くところによると戦後間なしにこの明石へ仕事しに来たというのです。闇市のあったという魚の棚あたり。大八木さんは懐かしそうに見まわしていやはった、昭和五年生まれで当年87歳におなりになる。その明石というと、魚が美味しい町というイメージですが、そのとおり、ぼくはアナゴを見つけて買いました。タコとアナゴに明石鯛、それからたこ焼きのような明石焼き、食べ物の話ばかりですが、食べることは、いまや最大の関心ごとです。もうこの年齢になると、孤立無援、世の中と交じることがままならないところですが、だから、食べることは、金さえあれば、食べられる。

 食のことが美術手帳に取り上げられて特集「新しい食-未来をつくる、フード・スタディーズ-」となって書店に並んでいるので買いに行ったところです。久々、本屋さんに入って、物色して、そそくさと買って持ち帰ってきました。編集長の岩淵さんはIMIに来ていたので1997年ごろの当時から知っている学徒でした。慶応大学の文学部で勧誘するのに応じて大阪にやってきた。いつのまにか美術手帳の編集長に就任されて、美術手帳は創刊号のころから集めて、フォトハウス資料室に所蔵していたのが、1992年の写真図書館設立のあと、そこに預けていて、今の名称は大阪国際メディア図書館ですが、基礎資料の一角を占めています。

 食のことは、2004年に総合文化研究所を立ち上げたときのコンセプトの基調をなすテーマでした。農産物をつくる百姓、最先端芸術家の定義で、テクノロジーの先端を使った芸術に対抗するがごとくアナログにて生産することの芸術化を実践する輩を最先端芸術家とパロディーしたところ、今になって、決してパロディーではなく、新しいアートの形になっていくというではないか、これはそのとおりだと思うところです。総合文化研究所、むくむく通信社、アグリネットの系列は、反グローバル化の道筋です。アートは食のことを含んで、生きることの本質を包み込まなくては成立しないと思うんだけど、いかがかな、食うことが先、セックスだけじゃだめなんです。

淡水雑記170822

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人の生き方というか、人の生き様というか、思うところが多々あります。
人のことはどうでもよくて、とは思っていませんが、自分のことを思います。
写真に写った人は、ぼくではありませんが、なんどか露店のところで知りあいました。
浮世とか、この世とか、現世とか、言い方いろいろありますが、現実の場のこと。
京都には蓮台野という地帯があって、ぼくのいるあたりは、そのとっかかりです。
生きてることと、あの世のこと、生きているから思うこと。
一昨日でしたが、龍谷ミュージアムの展示を、ひとりで見に行きました。
同じ展示を7月に文字さんと見に行った<仏教の思想と文化>です。
おおきな世界に包まれて、いま、自分の存在があるんだ、なんて悟ったり。
でも、生きていくことは、食料にありつかないといけません。
食料にありつくために、人はさまざまに努力しなければいけません。
生きてる限り、食べ物を求めていかないと、いけない宿命ですね。
なんやかやいいながら、よく、ここまで生きてこられたなぁ、と思うところです。

淡水雑記170820

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京都にいるから特にそうなのかもしれないけれど、仏教や神道に興味がわきます。
とはいっても、仏教のことや神道のことを、どれだけ知っているのか。
この年になって、あらためて、そういう領域の知識は得てこなかったと思う。
1946年、戦争が終わってからの生まれで、時代のせいだったのかも知れない。
とくに信徒でもないから、無頓着に、宗教心のない人間として育った。
戦争が終わって半世紀というのは、宗教が希薄な時代であったと思う。
でも社会の深い所で宗教思想が、流れていたのかも知れない。
龍谷ミュージアムの平常展でしたが「仏教の思想と文化」を観ました。
七月に観て、今日観て、二回観たことになりますが、深くはわからない。
「インドから日本へ」というサブタイトルがついている展覧会です。
資料が並べられているけれど、それぞれの内容が十分に理解できない。
理屈で理解するなんて無理な自分は、感覚的にわかろうと思うのです。
死に向かっている最中だから、その来迎のきもちを受け入れよう、です。
掲載写真とは関係なくはなくて、大文字の送り火を見る人々。
ぼくもカメラを携えて、大文字の送り火を見ていた部類です。


淡水雑記170816

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 このまえに縁日の売り物で、反った丸棒が置かれたイメージを載せたところですが、この写真はその反り棒の真ん中あたりに描かれた絵です。なんともまたこれは、男と女の交情場面、戯れあっている図です。この反り棒がなにに使われたのか定かではないけれど、いろいろと想像させえくれる代物ではあります。先の方がくびれておれば、あきらかにそれは男の象徴だとわかって、それを使われるのは、と具体的に想像することにあるのですが、これは、いったい、何に使うための反りあがった丸棒なのかとおもうところです。


淡水雑記170814

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 なにはともあれタブーとなっているのはセクシュアルな人間を語ることではないかと思うのです。その領域へ足を踏み込ませると、不謹慎のそしりで、下品にみられたりする感覚です。どういうことなのか、意識構造、この世には共通の価値観があって、その価値観に基づいて上品下品がマトリクス化されているんですね。ぼくなんかはマージナリーな人間だと思っているから、この世を支えている価値観の底辺部を見ている、見たいと思っている輩です。本質的なもの、根源的なもの、それを極めていかないと死ぬに死にきれないなぁ、と思ってしまうわけです。

 そういえば、写真表現で話題となるのは、やっぱり普通ではない、特別やなぁ、と思うようなイメージですね。もちろん体制を崩してしまうイメージというのは、その体制の中では禁じられるわけですが、そこのギリギリの処、ヘッジといえばよろしいか、縁、ヘリ、きわどいところ、ですね。ステーグリッツなんて高尚で上品ですが、アーバスなんてある種の極みで下品な領域で写真を撮るんですよね。どっちかいうとやっぱりアーバスの方が主流となりますね。その後のドキュメントというのは、ね。

 インターネットがなかった頃といえば今から20年前以前ということになろうかと思いますが、外国から入ってくる写真集に掲載の写真で、男や女の性器が写っているところには黒塗りがされていました。いまならネットの中の写真でモザイクがかけられたもの。そういう施しがなされていない写真が手に入らなかったかといえば、それは内緒で手に入れるyことができたようです。温泉場で売られていた写真、なにかしら陰鬱なイメージを醸しだす写真ですが、これは、いま、ネットででも見られますが、モザイクというかぼかしが入っていて、そこのところは見られない。といいながら、奥の奥で見られるようになっているんですね。ネットの時代、サーバーが日本国内でなかったら、無修正でおいておくことができるとの、もっぱらの噂です。そういう時代の現在です。