淡水雑記170626

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<自分研究について>-2-
ぼくの家族のアルバムのなかに、自分の姿が写った写真があります。ここに載せた写真は、幼少の頃のなかでも一番古い写真です。三歳までに撮ってもらった写真だと思われますが、どこかの写真館で写真屋さんに撮ってもらった一枚です。幼少の頃の写真は、これしか残っていなくて、自分が写っているという貴重な資料なのです。自分とは何か、という質問を、自分に対して投げかけることが、大人になる前の青春期から芽生えだしていたと記憶します。自分を相対化して、写真に写った自分を、自分の姿にして、光景を創り出すわけです。自分がいる風景が自分の中に生成しているのです。

自分とは何か、この問いに対する答えも、時代によっていくつかの捉え方があるように思えます。環境から作られる人間の所作、環境の中での思考方法、そういう時代の中で作られる個人が、自分にあてはめられる。簡単に言ってしまえば、こういうことになるのかと思いますが、それなが、自分という存在の核となるものは、環境あるいは個人が生きる社会によって形成される、ということなのでしょう。自分とは何か。これではわからない、解決できない、というのが現状の思いで、迷宮入りになってしまいそう。だから、自分なんていう核はなくて、その都度生成して消えていきながら変化していくものだ。

感情というものがあると思う。なんだろうか、情、情を感じる、この情ということの中身です。感覚というのもある。崩れていくような感覚とか、高揚していく感覚とか、いつも揺れ動いているように思えます。身体的な要素なのかも知れません。好き嫌いなんてことも起こってきます。好き、自分の好みに合うという感覚でしょうか。好きな食べ物、好きな異性、好きな同性、好きな感覚なっていうのもあろうかと思います。この好き嫌いがどこからやってくるのか。もちろん、自分のなかにおいて、どこからやってくるのか。無意識と仮定されるところから意識にのぼってくる感覚、あるいはイメージのことです。

淡水雑記170621

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<自分研究について>-1-
最近、パソコンソフトのバージョンアップがあって、それからかと思うが、記述している途中で止まってしまって、書いた文章がおじゃんになる、ということが頻繁に起こります。以前にもよくあったことですが、これには困ります。でも、考えようによっては、その文章は発表しない、人目に晒さないほうがいい、とパソコンが判断してくれているんだ、つまり人工知能ってやつですかね。すざまじいじゃないですか、人工知能。でも、怖い時代になったのかも知れない。

ぼくの年齢はいまや71歳を過ぎましたよ。1946年4月の生誕だから、戦後まもなく。ここに載せた写真はある本の複写ですが、そこに現わされている時期は、ぼくの誕生から記憶が残っていない頃の出来事のことです。自分の作られ方というのを客観的に見れないかなぁ、と思っていて、客観と主観をクロスさせることで、自分の成り立ちが観察できるのではないかとも思うのです。というのも、表現研究、表現ということを研究する、という枠組みを設定したところだからです。

自分の作られ方、客観的に見れたらいいな。それと自分が人として動物として、本能に属する部分だと思うレベルにまで及んで、自分の作られた方を考察したいと思うのです。たとえば生殖本能は動物としての基本的な部分ですが、この生殖本能に基づく性行為、そのバリエーションとして文化領域にひろがる社会の中での構成とか。それから生存にかかる部分、食物のこと、住居のこと、それらが自分という生命体にまといつく外世界に対しての内世界。この内世界から外世界への発信が、表現ということになるのだろうと思うところです。


淡水雑記170605

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花の写真を載せますが、その理由のひとつは、公開するには無難なイメージだからです。ネットの時代だから、というわけではないが、創作して人に見せようとするとき、いろいろと制約があるように思います。公開する側は、そのことを意識して、どこまでが公開が許される範囲か、ということを考えます。そのあたりのことを、自分の感覚に基づいて記しておこうと思います。というのも、かなりきわどいところで、イメージ表現しているからです。いいえ、花の写真を公開することには、何の制約もないから、気楽なものですが。

18禁というのがあります。成人向きというのがあります。アダルトという言い方があります。ネット上でそういうイメージの画像や映像が置かれている領域をアダルトサイトと名付けているようです。いるようです、と推測形になるのは、明確なことがわからないからです。報道用語では使ってはいけない語句とかあると思いますが、一般にはわからないんです。画像については、性器が露わになっていないこと、このことが条件であるようです。ただし、日本の法律が適用される地域内で発信される範囲であって、外国からの発信では、そうではないようです。

文化の領域で、文学にしても、絵画にしても、映像にしても、性の描写にはかなりの制約があると考えられます。ところが、それらの表現領域において、その制約を破るというか枠を狭めるというか、そのことを試みることがあるのです。芸術表現とは、既存の価値を変容させていく役割を持つものだし、そのことによって芸術表現として成立するものだと考えます。性を扱うことは、それだけで犯罪と紙一重の表現となっていくわけで、まどろっこしいですが、そのことを意識して、枠を推測して、逸脱していく必要があるようです。