淡水雑記-15-

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<性的興奮ということ>
文学作品とか映像作品とか、静止画である写真作品とか、それを読んで、見て、興奮する。
俗に性的興奮という、性的という二文字が入る興奮のことを四文字熟語としているこのこと。
文学であれ、写真を含む映像であれ、見る側に、つまり鑑賞者に、ある種の興奮を与える。
作品は興奮を与えるためにある、といっても過言ではないと考えています。
興奮は、感動といってもいいかと思います。
それに性的という範疇がつくわけで、性的とは、セックス的ということでしょうか。
性というのは、おおむねセックスすること、性的というのは、それへの類似ということ。
読む、見る人に、その感動を生成させ、からだをセックスのときのように奮い立たさせる。
この度合いが高ければ高いほど、その作品は優れている、と評価していいのではないか。
でも、この尺度ではかって、優れている作品は、じつは既存の文学や映像からはみだします。
芸術としての文学作品や映像作品や写真作品とは一線を画している、というのが現状ではないか。
性的興奮を起こさせる作品は、芸術ではない、というのでしょうかね。
では、芸術とは何か、と問い直して枠をひろげなければ、ならないのではないでしょうか。
まどろっこしい言い方していますが、今、現時点のメディアのなかで、再考すべきでしょう。
性的興奮は美に背いているものなのか、それとも美に昇華されていくものなのか。
様々なメディアを使う表現者には、この問題を考えないといけないのではないかと思うのです。


淡水雑記-14-

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<東松照明さんとの約束>
1984年、東松照明さんに、フォトハウスを始めるといったときのはなしです。
写真を撮り続けないといけないよ。
下から支える存在にならないと成熟しないよ。
とこの二つのことを申し受けました。
教える立場の人は、おおむね現役作家ではなくなって、過去の栄誉でもってその職に就いている方がたくさんいらっしゃることを言い当てられたことです。
それから、ことを起こしていくときに、だれもが前に立って自分の名誉だというのが人の常だから、事務方がそのことを支えないと成熟しない、と言われたのです。
これまでにも、何度もその約束を思い起こしながら、バックヤードから下支えしてきたとは思っています。
作家であることで、現在的なテーマが見えてくる、ということですが、これは最近の実践です。
どちらも、全体を把握していくには、欠かせないことだと、思えるようになりました。
(続く)

淡水雑記-13-

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<フォトハウスのこと>
フォトハウス、その生成物語を作っておかなくちゃいけないな、と思うところです。
というのも古事記って書物があるけれど、この記述って、つまり自己正当化作業だったとか。
ことの正当化を図るために為政者がよくする手段で、嘘ではないが本当でもない、というような。
あっちこっちを張り付けて、物語にして、自分の正当性を世に示す、ということですね。
ということで、これから立ち上がるフォトハウス写真研究会を正当化してみようと思うのです。
キーワードは、関西の歴史あるカメラクラブを持ち出し、作家では東松照明さんを持ち出します。
というのも、ぼくが関係してきた過去を振り返って、その痕跡を関連付けて記述していくからです。
浪華写真俱楽部が大阪で創立されるのが1904年だと書いてあります。
ここが元祖です。
というのも、浪華写真倶楽部に集まった人たちが、全部とはいいません、一部の人ですが、1930年には大阪で丹平写真倶楽部を創立し、戦後1946年には京都において京都丹平が誕生します。
その後、1953年シュピーゲル写真家協会が設立され、京都丹平ひとつだった京都に1964年、京都シュピーゲルが生まれます。
1975年には京都シュピーゲルが、名称を「光影会」と変更して2017年に至ります。
このカメラクラブのまわりを囲むように、かぶさるように、朝日新聞社系の全日本写真連盟が、美術団体の二科会が、東京に本部を置いた全国支部組織を構成して、ヒエラルキーを構成します。
この構造は、2017年現在にもその通りであって、三つの写真倶楽部も健在です。
詳細は追って検証していきますが、フォトハウス写研を提案する中川が、この流れの中にいた。
1980年頃までですが、その中でどっぷり写真の勉強をしてきた、基礎を培ったと思うのです。
一方で、写真家東松照明氏の京都取材にあわすかのように、撮影助手的役割を担います。
東松照明氏とマンツーマンでのトーキング、理論だけではなく酒の場で本音らしきものも語られます。
フォトハウスの原形があらわれるのは、東松照明氏とのセッション、トークのなかでまとまります。
それが1984年だから、第一次、第二次のフォトハウス活動を終えて、2017年4月第三次がはじまる。
フォトハウス写真研究会は固定ではなく、生成しながら変容していく運動体として捉えます。
集まる場としての写真倶楽部と運動体としての写真研究会とが軸にあって、それが動くのです。
このことをいくつもの場面から記述していこうと思うところです。
写真はたまたま先日大阪城公園へ赴いて撮った一枚、これを載せておきます。


淡水雑記-12-

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<鳴滝と芭蕉>
今日の話だけれど鳴滝という滝を見に行きました。
鳴滝には滝があってその滝が音を立てているから鳴滝というのだ、と佐野さんから聞いた。
そこには芭蕉の句碑というのがあって、ということは、芭蕉が此処へ来た。
そうなのか、それは知らなんだ、鳴滝っていう滝があることも知らなんだ。
今日は、常盤、つまり嵯峨野高校のところから歩いて、嵐電鳴滝駅界隈へ行きました。
1965年頃、そこらへんは畑の中に家、だったように思っているけど、いまは家ばかり。
嵐電の駅から桜のトンネルをみて、それから北へあがって高尾へ行く道に出ました。
ゆるゆるやわらかなカーブの道を歩いて、ここらへんか、とおもいしや芭蕉の句碑の表示。
其処へ行って下を見ると、二層の滝があって、崖がって、句碑がありました。
句碑じたいは昭和の年号があったから、最近といえば最近です。
奥の細道に収録されているのではないと思うけど、芭蕉の句のようです。
でも、その句が、どういう句なのかわからない、句碑が読めない、やだね。
野ざらし紀行とか、芭蕉の本は、岩波の古典体系の一冊で、学生の時、買った。
なんとなく、いまもって、芭蕉の旅をイメージして感動していることに気づきます。
写真を撮っている、俳句を詠んでいる、手段は違っても、内面は共通のようにも思う。
でも、ぼくは、芭蕉より西鶴を選んでいて、侘び寂びよりも色艶の方が人間らしい。
嵯峨野病院という表示があって思い出したのが、キクさんが亡くなって安置に立ち会った。
たぶん、この山のどこかにあった安置場で、まだ死体のまま、秋の夕暮れ、でした。
鳴滝、嵐電の駅、高校一年の秋から冬の出来事ですが、克明に覚えています。
思い出されてきます。
どうしたらいいのか、もうここまで来てしまって、どうしたらよかったのか。
鳴滝、見たのは、初めてです。
写真を添付しておきます。

淡水雑記-11-

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<写真ワークショップのこと>
ここ数日はかって開催したフォトハウスの写真ワークショップのことを思い出しています。
当時の資料がいくつかあって、開催時の記録写真もあって、これは使えるなぁと思っています。
というのも、無為のことではなく、作為のことにして、ことの正当性を表そうとしている。
ことの正当性とは、いま創立しようとしている「フォトハウス写真研究会」の歴史みたいな。
東松さんがいて、企画が生まれて、実行して、終わってきて、次のステップに移行した。
そういう継続してきたことで、価値を高め、立場を確保し、差別化を図ろうとしている。
これは戦略で、森友学園をめぐる騒動をテレビで見ていて、戦略が必要だと思ったわけ。
ひとの感情なんて渦巻いているなかで、自分を目立たせたいという欲望が沸き上がる。
なんなんでしょうね、人間の本性ってゆうか、共同体の中での自分の立場への関心。
今日、載せた写真は、1986年9月13日の夜の出来事、ぼくがそこにいた痕跡です。
アーカイバルプリントの制作レクチャーの場面でしょう、当日の講師三人が写っています。
結局は写真の場に投入された講座でしたが、主流たる写真の現場から遠い処からはじめた。
当時はまだカメラ雑誌が隆盛で、カメラクラブが主流で、独立した個人なんて弱かった。
あきらかに70年代に起こってくる東京の写真状況を背景に、京都で起こった出来事でした。
個人の自立、カメラを持って写真を撮って、アートの領域に足場を固めていくシステム。
人間の欲望、個人の欲望、なにか生きているという実感がほしい、それが底辺にあるようです。
新しくフォトハウス写研を創出しようと思って、具体的には4月9日に創立のところです。
裏話も含め、全体を明らかにしていくことも、このプロジェクトの仕事かと思っています。
いっそう個人の時代に生きていくための個人としての自立を目指して、です。