淡水雑記170822

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人の生き方というか、人の生き様というか、思うところが多々あります。
人のことはどうでもよくて、とは思っていませんが、自分のことを思います。
写真に写った人は、ぼくではありませんが、なんどか露店のところで知りあいました。
浮世とか、この世とか、現世とか、言い方いろいろありますが、現実の場のこと。
京都には蓮台野という地帯があって、ぼくのいるあたりは、そのとっかかりです。
生きてることと、あの世のこと、生きているから思うこと。
一昨日でしたが、龍谷ミュージアムの展示を、ひとりで見に行きました。
同じ展示を7月に文字さんと見に行った<仏教の思想と文化>です。
おおきな世界に包まれて、いま、自分の存在があるんだ、なんて悟ったり。
でも、生きていくことは、食料にありつかないといけません。
食料にありつくために、人はさまざまに努力しなければいけません。
生きてる限り、食べ物を求めていかないと、いけない宿命ですね。
なんやかやいいながら、よく、ここまで生きてこられたなぁ、と思うところです。

淡水雑記170820

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京都にいるから特にそうなのかもしれないけれど、仏教や神道に興味がわきます。
とはいっても、仏教のことや神道のことを、どれだけ知っているのか。
この年になって、あらためて、そういう領域の知識は得てこなかったと思う。
1946年、戦争が終わってからの生まれで、時代のせいだったのかも知れない。
とくに信徒でもないから、無頓着に、宗教心のない人間として育った。
戦争が終わって半世紀というのは、宗教が希薄な時代であったと思う。
でも社会の深い所で宗教思想が、流れていたのかも知れない。
龍谷ミュージアムの平常展でしたが「仏教の思想と文化」を観ました。
七月に観て、今日観て、二回観たことになりますが、深くはわからない。
「インドから日本へ」というサブタイトルがついている展覧会です。
資料が並べられているけれど、それぞれの内容が十分に理解できない。
理屈で理解するなんて無理な自分は、感覚的にわかろうと思うのです。
死に向かっている最中だから、その来迎のきもちを受け入れよう、です。
掲載写真とは関係なくはなくて、大文字の送り火を見る人々。
ぼくもカメラを携えて、大文字の送り火を見ていた部類です。


淡水雑記170816

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 このまえに縁日の売り物で、反った丸棒が置かれたイメージを載せたところですが、この写真はその反り棒の真ん中あたりに描かれた絵です。なんともまたこれは、男と女の交情場面、戯れあっている図です。この反り棒がなにに使われたのか定かではないけれど、いろいろと想像させえくれる代物ではあります。先の方がくびれておれば、あきらかにそれは男の象徴だとわかって、それを使われるのは、と具体的に想像することにあるのですが、これは、いったい、何に使うための反りあがった丸棒なのかとおもうところです。


淡水雑記170814

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 なにはともあれタブーとなっているのはセクシュアルな人間を語ることではないかと思うのです。その領域へ足を踏み込ませると、不謹慎のそしりで、下品にみられたりする感覚です。どういうことなのか、意識構造、この世には共通の価値観があって、その価値観に基づいて上品下品がマトリクス化されているんですね。ぼくなんかはマージナリーな人間だと思っているから、この世を支えている価値観の底辺部を見ている、見たいと思っている輩です。本質的なもの、根源的なもの、それを極めていかないと死ぬに死にきれないなぁ、と思ってしまうわけです。

 そういえば、写真表現で話題となるのは、やっぱり普通ではない、特別やなぁ、と思うようなイメージですね。もちろん体制を崩してしまうイメージというのは、その体制の中では禁じられるわけですが、そこのギリギリの処、ヘッジといえばよろしいか、縁、ヘリ、きわどいところ、ですね。ステーグリッツなんて高尚で上品ですが、アーバスなんてある種の極みで下品な領域で写真を撮るんですよね。どっちかいうとやっぱりアーバスの方が主流となりますね。その後のドキュメントというのは、ね。

 インターネットがなかった頃といえば今から20年前以前ということになろうかと思いますが、外国から入ってくる写真集に掲載の写真で、男や女の性器が写っているところには黒塗りがされていました。いまならネットの中の写真でモザイクがかけられたもの。そういう施しがなされていない写真が手に入らなかったかといえば、それは内緒で手に入れるyことができたようです。温泉場で売られていた写真、なにかしら陰鬱なイメージを醸しだす写真ですが、これは、いま、ネットででも見られますが、モザイクというかぼかしが入っていて、そこのところは見られない。といいながら、奥の奥で見られるようになっているんですね。ネットの時代、サーバーが日本国内でなかったら、無修正でおいておくことができるとの、もっぱらの噂です。そういう時代の現在です。

淡水雑記170801

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 いったい此処でなにを為そうとしているのか、はなはだ不明確になってきて、何を書こうかと思案に暮れるところです。思案に暮れるといえば、シアンクレールというジャズ喫茶が荒神口にあった。うんうん、あったあった、と頷かれる方がいらっしゃれば、その方はあきらかに1970年前後に京都にいらした方。学生だったら学生運動に関わっていらした方。

 1970年と記したが、じつは1968年にその、モダンジャズを聴かせる喫茶店の近くの大学に入学したものだから、そのあたりの出来事が頭の中を駆けめぐります。その空間は、薄暗い正方形のボックスだったような記憶です。学生で詰まっていて、たばこの煙がむんむんしていて、めちゃくちゃ大きな音量で、会話ができない。不健康だな、この記憶は、不健康極まりない。このように記していけば、ぼくのその頃なんて、不健康そのモノであった、なんて表記できるんじゃないか。

 載せている写真とは、何ら関係ないんですが、たまたま、思案に暮れるということばから、思い出が噴出してきたわけ。高野悦子って女子がいて、なんたっけ本、二十歳の原点でしたっけ、そこにこのシアンクレールって喫茶店が書かれていたように記憶していますが、だれか、認証してくれ。この写真に写っている代物は、何に使った代物なのだろうか、縁日の露店に並べられていた風景です。この棒には彫り物があって、その彫り物は男と女の交情場面なのです。