淡水雑記-4-

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 死者の霊を弔うということであれば、この年齢になると結構たくさん、身近な人を見送っています。それが身内であったり友達であったり、先生であったり、後輩であったり。世にあって有名になった人もいれば無名の人もいます。気になりながら生死がわからないと思う人もいます。人の死というもの、このことをあまり真剣にはとらえてこなかった。でも、最近、死ということの情景を、想うようになってきたと思う。もう名前を明かしておこうとおもうけど、彼女は瀬川恵美。写真に撮られているのは二十歳そこそこだったと記憶しています。どうして、いま、瀬川恵美なのか、そうですね、一昨日だったか高野悦子のことをテレビで見たからかも知れない。瀬川恵美は1982年頃ではなかったか、暑い盛り、梅雨のころだった。マンションの高い階から飛び降りたのだと言います。ええ、棺に入れられた瀬川恵美の顔を見ましたが、死の直後のことは話に聞いただけです。

 どこかにも書いた記憶があるんだけど、知り合った最初は、ぼくの写真展、聖家族での個展のときだから1979年12月、テレビモアというグループで取材申し込みしてきて、純という彼氏とともに聖家族で会った。釜ヶ崎でビデオカメラをまわして、ドキュメント作品を作っているんだということから、かなり親密な知り合いとなっていきます。若い世代、ぼくよりも一回り若かったように思う。生きてたらそれでも還暦を迎えるころでしょうか。釜ヶ崎で会って、一緒に取材したことはなかったけれど、どうして瀬川恵美が釜ヶ崎を撮るのか、ということがわからないまま、死んでしまった。何故撮るのかという命題は、これはぼくに引き当てて考えてみても、明確な答えが見つからない。表の理屈はつけることはできるけれど、何故撮るのか、という本質に近い処は、何故だかわからないのです。瀬川恵美が何故死に至るのか、あるいは至ったのか、これがわからない。

 自殺という行為は、その後、現在でも大きな社会問題となっています。毎年三万人を超える人が自殺している。増加の傾向だと、五木寛之氏のエッセイで読んだことがあります。生きているぼくには、死んでしまった向こうにいってないから、生きて残っているレベルでしか語れないんですが、死ぬ瞬間なんて、怖さとか無くて、ふ~っと行ってしまうんだろうと思う。まあ、それなりの体験をしたと思っているから、このように言えるわけで、でも、そこへ行ってしまうまでのプロセスがあるじゃないですか。文化のなかでそれを食い止められないかというのが、総合文化研究の目的で、総合文化研究所なるものを10年ほど前に立ち上げた。その向こうは闇の世界で、闇の世界を知ったものが死に至る。この闇の世界から救うのは何か。宗教かもしれない、芸術かもしれない。ぼくは芸術におけるエロスの深みがその人を自死から救うのではないか、と思った。

淡水雑記-3-

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 高校に入学したのは1963年でしょうか、いま、指折り数えて計算しているところですが、三年生の秋に東京オリンピックがありました。そのころのお話しです。中学のころから知っていたM君、高校に入って同じクラスになって、よく遊んだというより、勉強をしたという方がいいでしょう。そのM君のお父様がお医者さんで病院を経営なさっているのを知りました。恋した人のことで真剣に悩んでいてたぼく自身、それはもう精神病じゃないかと思ってしまって、その病院を訪問して、診察を受けようかと思ったものでした。結局、訪問することなしに、診察を受けることもなしに、そのまま今に至っているのですが、自分では、その気があったと思うところです。男子16歳というのは感情多感な年齢で、好きな子ができて、その子に打ち明けられなくて、一人悩みます。どうしたはずみか、心の内をうちあけて、恋心を伝えたけれど、成熟しなかった。

 M君は病院の跡取り息子だったらしくて、高校一年は公立高校へ入学していましたが、次の歳には私立の進学高校へ転向していく準備をしていました。ぼくには事情がつかめていなかったのですが、M君はたぶん相当に苦痛だったのではないかと思えます。M君は、ぼくのもとへ、何度も電話をかけてきました。ぼくの家には公衆電話、赤電話が置いてあり、そこは道路に面していました。冬で相当寒い日の夜、八時ごろだっかたに電話がかかってきて、一枚の写真に写った女子のことを、執拗に訊いてきました。M君、そのAMという女子に恋していたのです。そもそも、その一枚の写真は、ぼくが学校へ持って行ったブロニー判カメラで撮った、一枚のクラス集合写真です。ぼくはSTという女子に、入学してまもなく恋していて、秋に、STの写真が欲しくてカメラを持って行って集合写真を撮ったのでした。まさにその写真に写った別の女子にM君は恋していたのです。M君とはその後、学校で会うこともなく、顔をあわせる機会もないままに、しだいに遠のいていきます。ぼくはSTと何度か会いましたが、それだけで終わって、二年生になってからは、顔を合わすこともなかったように思います。

 どこから話しをつなげていけばよいのか、恋した女子を忘れるために、ブラスバンド部を立ち上げ、熱中しました。高校は進学校だったし、ぼく自身も大学進学を思っていたところでしたが、勉強どころではなくなってしまいました。ブラスバンドの成熟、それなりに形を整え、秋の文化祭を機に、後輩に引き継ぎました。文芸部のグループと親しくなり、いっしょに行動するようになっていました。どうもぼくはその当時、かなり大人っぽかったようです。標準的高校生の意識レベルより大人っぽかったのか。そういう最中の修学旅行は九州行きでした。クラスは別々になっていたSTと顔を合わせることになって、一気に恋心がよみがえってきたのでした。延岡あたり、列車のなか、夜だったかも知れない、顔を合わせて、見つめあって、言葉は少なかったように思う。忘れていないことを告げた。でもそれで何事かが起こる、付き合いが始まる、というわけでもなかった。終わったものは、すでに終わっていたのでした。精神科の病院へは入院こそしませんでしたが、入っていて治療をうけてもおかしくはなかったと思えます。M君が死でいたということを聴いたのは数年前のことです。詳しくはわかりません、自殺したということでした。

淡水雑記-2-

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 嵯峨大覚寺の境内に「大沢の池」があります。その池から山のほうに名古曽の瀧というのがあったということで嵯峨天皇に関係してるらしい。今は、その瀧には水が流れていなくて、石組の跡だけが残っていました。先日、その名古曽の瀧跡へ、導かれるままに行ってまいりました。石組みの、その向こうには、垣根があって、そこからは出られなかったのです。が、そこの住所は、嵯峨名古曽町です。嵯峨名古曽町という地名は、ぼくが高校の一年後輩でいた子が住んでいた住所でした。高校二年生だった当時、一度だけ単車の後ろに乗せて、その子の自宅の前にまで送って行きました。暗い道を走って、その子の家屋は藁葺の家だったように記憶していて、障子戸に縁側がある家だったように記憶しています。そのとき一回切りの送りです。冬でした。素手が凍えるように冷たかったのを覚えています。冷たい道を単車で突っ走った。学生服のズボンの右足の糸がほどけ、ふくらはぎが見えていました。特別な関係にあった子ではありませんでしたが、気になる子ではありました。

 その子は文芸部に所属する女子のひとりでした。文芸部には男女が数人ずついて、仲のよいグループに見えました。ぼくなんぞは、女子と会話するだけでもハニカム派だったと思います。ぼくはその年、ブラスバンド部を立ち上げ、部長として文化祭までがんばって、そのあとのクラブ運営は後輩に譲って、ぼくはフリーになりました。その秋の文化祭で、文芸部の人と知り合うようになったのです。高校生の年齢は16歳から18歳、青春というか感情多感な頃だったと思います。胸が絞めつけられるような醒めた冷たい感覚に襲われます。家庭的に十分でなかったことも原因しているかもしれないけれど、個人の資質に拠るところ大きいのではないかとも思います。というのも、その頃から感じ始める感覚が、起伏はあるとしても今にも続いていて、まるで病気かと思うくらいです。高校一年生のとき、恋をして、恋した相手と何度か逢引したけれど、今でいうお付き合いは成熟しませんでした。

 恋に落ちるというのは青春時代には、誰だってあるもんだと思います。片思い、そうです、片思いというやつです。これは相手への思いの深さによって、こちらの思い悩みが浅かったり、深かったり。深い片思いは、それなりに片思いではなくて、相思相愛かもしれないところまで成熟するけれど、なにかの因縁で途切れてしまう。終わってしまう。これは心の傷が失せるまで、相当な時間がかかるけれど、いずれのときにか忘れてしまうものです。そういう経験を、何度かしています。この個別の経験を紐解いていけばいいのかも知れません。ただ、それらは恋の段階で終わっていて、抱きあったり、接吻したり、性交渉したりというこたはありませんでした。唯一、一緒になった彼女とだけ、性の交渉があって、子供が生まれ、いまとなっては孫が誤認になっていて、それなりに社会人を務めあげてきたところです。外面的には大きな破たんもなく、紆余曲折でしたが、ここにこうして、こんなことをして、生きているところです。




淡水雑記-1-

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淡水雑記は風俗をフィクションするために作ったブログです。
エロスを感じる、巷の風俗には、男と女がいます。
それらを読み物風に描いていきたいと思います。