嵯峨の野に想う

120kyoto1702160024.jpg
 嵯峨は京都の北西部、双ヶ岡を越え、広沢の池を越え、山ぎわを歩んでいったあたりが嵯峨。ネットで検索すると「嵯峨」「嵯峨野」は、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称だ、と記されています。ぼくの通った高等学校が嵯峨野高校だったといっても、もう半世紀以上も前に卒業だから、現在の有名進学高校というよりはもう少し鄙びた感じの田舎の高校というイメージでした。その高校から歩いて広沢の池までいって、貸ボートにのって池で遊んだものでした。そういう嵯峨のイメージだけど、しだいにこの嵯峨という名前に、ぼくはある種、古典の風情を感じるようになったのです。たとえば紫式部の源氏物語とか、清少納言の枕草子とか、文学においても古典のなかで、名作を生んだ地域の感性でしょう。

 千鶴子さんは嵯峨野高等学校の卒業生です。広江さんは嵯峨野高等学校の卒業生です。美花さんも嵯峨野高等学校の卒業生です。千鶴子さんはぼくと同じ学年でした。広江さんはぼくより二十年ほど後輩になります。美花さんはぼくより四十年ほど後輩になります。いずれの方も思い出深い女性で、嵯峨の地に十代を過ごされて、やさしい心をお持ちになった包容力のあるお方でした。嵯峨のあたりを散策すると、そのご三方のお顔が、浮かんでは消えていくのです。恋心を抱いたお方ですから、心から消えてしまうことはありません。千鶴子さんはその後の消息がわかりません。広江さんのことは、最近、画家をやっていらっしゃることを知りました。美花さんは、その後の消息がわからなくなってしまいました。嵯峨の野に母のようにしてぼくの心に残ります。ことあるごとに思い出してしまいます。もうお会いすることもないのだと思うと、壊れてしまいそうになります。

 嵯峨大覚寺の裏になる所に名古曽という地名があって、最近、その場所が、高貴なお方の住居があった所だということを知りました。その高貴なお方が住まわれてたのは一千年以上も前のことになり、その後には大覚寺の敷地になっているようです。それはさておき、その名古曽という所の民家に住まっていた女子がおられました。ご存命ならば、古希を迎えられた方ですが、その後の消息がわかりません。先に記した千鶴子さんではありません。そのお方は、一年下のお方で、お姫様のようでした。その方のイメージは、別の所で別人として出会うことになりましたが、本人とは出会うことができませんでした。嵯峨の地には、思い出がたくさんあります。ぼくが生きている心の基底が、そこに支えられているような気がしてなりません。野辺の花が間もなく咲きだします。野辺の花一輪のかよわさとやさしさに、ぼくは支えられているのだと感じるのです。
posted by utumitansui at 14:46物語

物語-4-

120kyoto1802020019.jpg

 現代文学大系というシリーズが筑摩書房から出版されていたのが1960年代の半ばだった。そのようにいえるのは、その文学大系の55番、野間宏集が手元にあるからだ。この現代文学大系は全巻揃いで手元にあって、そのころ、片っ端からこの全集を読んでいたものだった。文学全集もほとんど手元からなくなってしまったけれど、この現代文学大系はほかさずに残っている。片っ端から読んだ、というのはかなりの嘘が混じっていて、読んだことは読んだが、全部読んだなんてことはなくて、まだ開いたこともない巻があるのではないかと思うくらいだ。ともあれ、明治以降の近代文学を読み解いて、自分のベースにしようと思っていたことは事実で、日本近代文学史はおおむね体系的に捉えられたと思う。そのころ「我らの文学」だったかのシリーズがあり、これは1960年代の現在文学であった。開高健なんか、とんでもなく面白くって、ぐいぐい読んでしまった記憶だ。詩歌全集とか、個人別では大江健三郎全作品とか。

 しかし、こういうベーシックな意識と感覚を根底にして、自分の文体を創り出し、自分のテーマを描いていって、読者を獲得する、というか感動させる。このことができるか否かが問題だ。ということでいえば、ぼくは挫折組であって、なんにも成熟なんてしていかなくて、昔、こんなことがあったよ、とまるで自慢話のようにして生徒を前にして語る。先生したこともあるし、学校作りに携わったこともあるけれど、ぼくは、作家を目指しながら、そうとはならなくて、その周辺で、うだうだとほざいているにすぎない。感動させるための要素は何か、そんなことわかりそうでわからない。わかったら苦労するもんか、ということだ。自分でもわかっているのだ。わかっているけど、やめられない。そういうレベルだから、ぼくは威張ることはしません。恐縮してしまう立場だけど、それにはあまりにも空しすぎて、淋しすぎて、苦慮しているのだ。

 文芸春秋の今月号は、芥川賞受賞作品二編が載った号だから、買った。読むかどうかはまだ未定だが、西部暹さんの死についての対談が載っていたので、それを読んだ。追悼の文だと思う。実際には、ぼくは西部暹さんの著作は読んでいません。名前は15年ほど前に知りました。そういう思想の世界に近づきたかったけれど、近づく接点もなく、遠目に眺めているだけだった。それから2004年頃から、ぼくはフィクションを書き出していて、いま恥ずかしいながら、再読しているところで、ぼく自身の痕跡を、ぼく自身が検証しているところです。自分を分析するなんて、自己満足に過ぎなくて、だれも相手にしてくれないから、それは自分でやるしかないじゃないかという。死んでしまえばそれまでで、ぼくの作業してきた痕跡は、封鎖され、消えていくのだ。恥ずかしいこと、いっぱいしているから、生前に消しておいた方が良いかもしれない。
posted by utumitansui at 18:15物語

物語-3-

120tabi1304290006.JPG

 その頃、1982年といえば、まだワープロが貴重な機器で、オフィスといえども一般には高価で手に入らないものだった。東松照明論と題した原稿用紙の束が見つかって、書かれた年を確認したら1982年。その原稿はタイプ打ちされて、映像情報第九号に掲載された。どうしてなのか、その原稿のことを思いだして、棚から出して、スマホのインスタグラムにアップするべく撮った。ナマ原稿とはいえ、書き直して清書したやつで、元はといえば何度も書き込みをしたものだったと思う。原稿用紙に書いて、それをタイプ打ちしてくれる人に頼む。もしくは印刷屋さんを通じて頼む。出版社とはいっても自分出版だから、その原稿をタイプ打ちにして校正して、印刷原稿にしなければならない。それらを自分の手元でやっていて、タイプは事務用のタイプライターでした。ワープロはその後で、パソコンもその後で、いまや、パソコン一つですごいことまで出来るようになっている。

 1962年に高校に進学することになって、入部したのが新聞部でした。一年間で辞めてしまったが、当時は活版印刷で、活字を拾って組んで、印刷機にかかるということ。高校一年の時に、その現場に立ち会った。その後には小物を扱う印刷屋さんにアルバイトした。活字を拾って組んで印刷機にかける。薄暗い裸電球のもとで、夏にはクーラーもなく、裸同然、扇風機の生温い風にふかれて、労働した。いかにも労働者とゆうイメージで、労働運動を担うある種インテリ労働者、ストライキとか、デモとか、そういう時代だった。話は横道にそれたが、原稿用紙に原稿を書いて、タイプで打って、切って貼っての構成をして、版下をつくる。その版下で印刷機にかける。そういう時代のことを思い出しながら、その当時の原稿と、発表した雑誌のページをインスタしたわけだ。

 自己表現の方法と、それを実現する方法というか道具について見てみれば、この半世紀、大きく変化している。かっては手が届かなかった発信環境、それを最近の環境でいえば、放送、出版、といったメディアを、個人で作って、発信できるようになった、ということだ。おおきな資本がなくとも、個人の許す限りの出費で実現するわけだ。パソコンとデジタルカメラ、という環境から、今ではスマホだけで対応できる。もちろん、欲を言えばきりがなくて、およびスマホにしても回線使用料とかいるから、無償ではないけれど、極端に廉価でできるようになった時代だ。半世紀、原稿用紙に書いて、活字を並べて版下つくって、印刷するという原稿作り。それを紙に印刷、書籍や雑誌にしていくといったことから、スマホで用意された環境だけど、かなりイージーに発信できるのが現在だ、ということなのだ。


posted by utumitansui at 13:26物語

物語-2-

120tabi1304290002.JPG

気になるイメージが見つかったのでそれを載せてみた。明日香にある飛鳥寺の大仏だ。ぼくはなんの前知識もなく、彼女と訪れたところに飛鳥寺があって、拝観料を払って、拝観させてもらった。写真を撮ってもよろしいというので、写真を何枚か撮った一枚がこれです。日本で一番古い大仏だと聞いたが、本当なのだろうか。いつ頃なのだろうか。六世紀のころの話らしい。最近、日本の成り立ちに興味をもってきたので、ほんの少しだけそのころの知識を持つ様になった。古事記に描かれる神話もさることながら、国家の成立というか、人間のありさまというか、自分のルーツをどこに求めるかということとか、このあたりがそこへ興味をもっていかせる要因なのかも知れない。

 物語を作ろうと思って、表題を物語としているけれど、いざ書き起こそうとすると、何を書いていこうかと迷う。つまり内容がない。書く内容がない。描くイメージはあっても、文章に落とせないのです。なにしてるんやろ、みたいなことがポッと起こってきて、わけわからなくなってきて、あっちいってこっちきて、うろたえているのが、わかります。生きてるって、どういうことなのか、回答のしようがない問いがふつふつと起こってきて、やっぱりうろたえている。まもなく死ぬ、なんて考えたくなくても考えてしまうわけで、どんなことがあっても100歳まで生きるとしても、30年に満たない。いいとこあと10年ほど、あるのだろうか。こうしてパソコンに向かって、キーボードを打っていけるだけの気力と体力と身体の神経そのものが持てるのかどうか。わからないところまできている。

 あのとき、どうして、別れようと思えたのかといえば、キミが別の男と関係してることが分かったからで、それは僕たちの終わりを示していた。それから何十年ぶりかで会ったとき、ただキミがそこにいたことに、生きていた証しを覚えた。その後、キミに子供がいて、独立する年頃になっていて、旦那はどうなのか、それらを聞くことも為らないまま、今に至っている。それが、どうした、といえば、それまでのことで、人の関係なんてものは、それだけのモノ、その後の消息がわかっただけでも、いいじゃないか。とまあ、そう思うわけだ。感情が伴わないから、かなり冷静に見つめることができる。キミに愛を告白したわけでもなく、関係を持とうとしても持てなかった関係だから、最初から、何もなかったことでしかない。まるで、夢、幻、この世の出来事だったのかどうなのか、それすら不明瞭なことだ。


posted by utumitansui at 16:45物語

物語-1-

DSC_0705.JPG
 一年ほどまえに、ここに書きだした「或る物語」というのがあって、それが書きだしのところで終わっているので、その続きを書こうかと思いながら、いやいや、いまさら、今どきは、ショート、ショートで、輪を描くようにリンクさせていくのがベターではないか、とこの一年の推移を、自分ながらに思うわけです。物語とはいっても、まったくの空想なんてありえなくて、どっかで得たイメージを繋ぎ合わせて別のイメージに仕上げていくということに他ならないわけです。ここに掲載した写真、今日、2018年2月7日、北野天満宮の参道で撮った一枚、鳥居のある風景です。もちろん撮るときのプロセスには、この場所の由来を述べることで意味を持たせようとの魂胆があったわけです。なにもない土のところに、ぼくの脳裏には幻想的にあるイメージが立ち昇ってきます。それは母の姿で、この鳥居の横に、露店の店を出していて、何を売っていたのか、ぼくがいくと、人だかりのなかで母が応対していた。そういうイメージが立ち昇ってくるのでした。いつもの事です。たいてい、ここをこのようにして通るときには、母のイメージを思い出します。割烹着のエプロンを着ていたと思います。お正月で、煙硝をつめてパンパンと鳴らす黒塗りの手の中に収まるブリキの鉄砲を売っていたようです。そうだ、正月の子供のお年玉を当てにして、男の子がよろこぶ煙硝の鉄砲だ。小学校の二年か三年ごろ、そういう玩具でパンパンと、ロールになった煙硝でしたね、そういう玩具を売っていた。それが母なのか他人のおばさんなのか、複雑な思いで、ぼくはその母のいる光景を眺めていた、その光景がイメージされてきます。

posted by utumitansui at 16:53物語