淡水雑記(2)-1-

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こう暑いと、なにごとも思うようには進まなくて、ペースダウンしながら進めます。
「フォトクラブ京都」という名称の写真クラブを立ち上げようと思っているのです。
再来月の9月1日、土曜日ですが、創立例会を開催しようと呼びかけます。
新しい時代を眺める見識で、新しい形のクラブを形成させていきます。
歴史あるクラブを引き継いで、なんてことは言いませんが、その流れの中に存在します。
権威を求めるとは言いませんが、存続のためには、その思考が出てくるかもしれません。
ぼくの写真の出どころは、俗にいうアマチュアカメラクラブでした。
職能団体としての集団がありますが、職とはしていない人も混在で構成する集団です。
何時の時代にも新しい組織が生まれ、年月を重ねて形骸化してきます。
かってフォトハウスを設立した当時1985年頃には斬新だったこれも今や古い。
そういう経験も踏まえて、新しいグループを創り出します。
いつも先例にとらわれない、既存の価値にとらわれない、その感性が求められます。
ある種、だから、これから写真のことを知りたい、と思われる方の参加を求めます。


淡水雑記(2)-2-

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新しいことをする、とはいってもこれまであったことのパッチワークです。
でも形は既存のシステムを組み合わせるだけかもしれないが、問題は中身です。
コンテンツといっていますが、なにをどのようにするのか、という<なにを>です。
この<なにを>を<どのように>というところに、形ではない内容が生まれるのです。
形のなかで、感覚が先に立ってくる、言葉になる前、感覚です。
この感覚っていうのが<時代感覚>というやつです。
時代感覚、よく言われるけれど、この感覚を感知するセンサーが、その中にいる人の感覚です。
実験といえば実験です。
既存の枠組みに、既存の思考方法で、価値を計測していくだけでは、いけません。
まだ価値化されていない、価値の周辺にある雑雑さを、見て、聴いて、読んで、感じる感性。
そういう感覚が生じてくる場、生じさせる無垢な人の感覚が集合する場、これですね。

淡水雑記(2)-3-

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祭、これは祇園祭のワンカット、写真です、静止画です。
この写真を理解するのに、説明を加えます。
文字による説明、言葉による説明です。
つまり、文章や言葉が背景にあって、この写真が祇園祭のワンカットだと理解します。
理解するって、こういう文章は言葉の積み重ねによって、理解するってことになるんですね。
そうでない場合は、感じる、感動する、こころが揺り動かされる、これです。
でも、これも、言葉で、文章で、そのことが自分の中に定着するんですね。
文学を構成する言葉、文字、文章、文体、文脈、これらが基本にありますね。
これにモノがあてはめられる、これはペンです、ジシイズアペン、ですね。
文字文章と画像イメージを並べてみて、なにが底辺かといえば文字文章ですかね。
このことは、とっても大切なことで、イメージ、絵画や写真を理解する基本になります。
と、ぼくは理解していて、これが全てではないけれど、原語優位論を支持します。
指示しますといっても、この段階で支持するだけで、これでいいとは思っていません。
イメージがそれだけで成立することが、可能なら、それはどういう場面でそうなるか。
また、アホな、訳の分からないこと言ってる、とだれかが言っていますね。
でも、分かる人には分かる、とぼくは考えているわけです。
ベンヤミンを読んだ人、ソンタグを読んだ人、バルトを読んだ人、読んでどうした?
多木浩二氏だったか、いってましたよ、この問題、1980年代、問題提起されたの。
イメージ言語とか、イメージの羅列とか、でも、いずれも理解することは言語に拠る。
2018年です。
いま改めて、このことを問題にして、理解しませんか、原語とイメージの関係。


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淡水雑記(2)-4-

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掲載の写真は、平安京パノラマ、と呼べばいいのか、アスニーに展示されている模型です。
下部の真ん中が羅城門、まっすぐ伸びる道路は朱雀大路、突き当りが大極殿です。
どれくらいの時間、このパノラマに見入っていたのか、見ても、見ても、見飽きない。
京都生まれの京都育ちだから、この街に愛着を持って、過去を振り返ってみてるのかも知れない。
でも、若いころには、この京都にいるのが苦痛で、他の街に住みたいと思っていた。
他の街といえば「東京」、東の京都、首都になってから今年で150年といえばいいのか。
今年は明治150年といっているから、それまでは、このパノラマの街が首都であった。
京、という字の意味は何なのかわからないけど、都(みやこ)といえば天皇の居る処、とか。
「みや」というのは宮のこと、「こ」というのは此処のこと、詳しい方、これでいいのかしら。
言葉のルーツを研究しても、どれだけのもん、という思いがあるんだけど、学者は研究します。
ぼくは学者じゃなくて野次馬だから、ほんの興味本位で、知ったかぶっている輩です。
それにしても、ぼくの故郷は京都、それも市中、市中だけれど、北西の端っこです。
真ん中に住んでいる奴と、端っこに住んでいる奴ってのは、比較しようがない感覚だと思う。
ぼくは京都の端っこ、周辺の、縁にぶらさがっている輩だと感じているのです。
比較するなら、劣等感の塊みたいな、ひがみ根性みたいな、感覚でしょうね。
どこか、太宰のひがみ感覚と相似てるのか、でも真逆です、拠って起つ位置が真逆です。
ひとの内面を研究する学問は、心理学の領域なんでしょうか、自己の内面研究、なんてテーマ。
だれが、この自分を研究するという研究をしてるんだろう、これは文学の領域じゃないか。
小説、フィクション、物語、ナラティブとかいう語り調、そんなのを使いこなせる奴です。
それも、かなり新しい発見であって、ぼくは21世紀の潮流になるんじゃないかと、感じる訳。
先のことなんかわからない、今のこともわからない、過去のことは分かったふりができる、戯言。



淡水雑記(2)-5-

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気になっている写真を二枚、ここに載せて少し雑記したいと思います。
かなり前から気になっていた写真で、上の写真は東松照明さんの長崎の一枚です。
下の写真は中平卓馬さんのプロヴォーグに発表された一枚です。
写真についての考察ということでい云えば、いずれにも女の子の和服姿が写っています。
写真が持つ「意味」ということに言及しないといけない、と思っているところですが。
この二枚が対比的にぼくのなかに存在しているのです。
東松さんと中平さんの関係を記すと、中平さんの方が東松さんから影響を受けた方です。
東松照明さんの処へ入り浸っていた、とぼくは想定しているんですが、代々木のマンションです。
東松さんの写真制作の方法に対して、中平さんはなにかと反論したいと思っていた。
写真制作に入ったときに対抗馬は東松照明、その制作の方法を、どう崩すか。
似た画像を配置して、その写真が指し示す意味を、解体してしまうイメージにする。
東松さんの「意味」に対して、そういうことでは意味を持たない中平さんの写真です。
東松照明をどう崩すか、これが中平が持ったモチベーションではなかったかと思うのです。
さて「意味」の中身に触れていませんが、別講で「意味」ということを考えたいと思っています。
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淡水雑記(2)-6-

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安井金毘羅宮という名称でいいかと思うんですが、其処にある光景に、心を揺すられるんです。
詳しい由来はわかりませんが、縁切り縁結びのスポットで、穴の向こうで縁切り、戻って縁結び。
いろいろと想像を掻き立てる風景、その深くにある人間模様に興味がわいてきます。
縁切りと縁結び、見ていると女子が圧倒的に多いんですが、縁切り縁結びを、一気にしてしまう。
きっと新しい恋人ができて、もう古くなった彼を捨てるために、いや気持ちを払拭するために。
怨念というか、心情を察しながら、お札がいっぱい貼られた真ん中を通って往復です。

建仁寺の南東、祇園の八坂神社からだと南に五分ほど、北側にラブホテルが数軒あります。
愛を確かめ合う場所、といえば美しい物語に仕立て上げられるかと思うところです。
なにか物語を書きたいな、書いてみようか、ラブストーリー、男がいて女がいる風景。
日本の文学にあらわれる情念というか怨念というか、阿部定ではないけれど、情痴物語。
歳を取って、からだが枯れてくる分だけ、情痴に興味が深まるみたいです。
一枚の写真に、意味を見いだすとすれば、その複雑な怪奇を解き明かすことに繋がる。
(続く)