秋たちて-13-

-13-
 静かな夜。多恵の陶房。テーブルのワイングラスとチーズの皿を前にして、呼び出した松宮良一と二人だけだ。グラスに注いだワインの三杯目を手にする多恵。良一は三杯目を飲み干してしまって、グラスをテーブルに置き、チーズをつまんでかじる。
「ほんのりよ、酔っちゃったかなぁ」
「おねえさん、ぼくは、酔っぱらいそうですよ」
「おかね、都合つけて、くれるのね、感謝よ」
「おねえさんの作品があると、店、雰囲気が映えるんですよね」
「ありがとう、良くんに褒めてもらえると、うれしいわ」
テーブルには60W相当のスポットライトが落ちているだけ、三人掛けの長椅子は幅60㎝で簡易ベッドにもなる。外出していたワンピースのままの多恵。陶房に戻ってきて普段着に着かえようかと思ったが、良一には女の潤いを示さないと恥ずかしい、との思いでインナーだけを気軽にした。腰まわりをショーツだけにして、リラックスだ。イケメン良一は、シャツにジーンズ、ダンディーだ。
「ねぇ、良くんって、彼女、いるのよね」
「ええっ、おねえさん、いないんですよ、ほんとですよ」
「そうなの、ほんとかしら、そうねぇ、ほんとかも、ねぇ」
うっとり、多恵は良一の肩に手をかけ、頭をそのうえに置いてしまう。前向いた良一に前向いた顔を近づけていく。良一が硬く緊張している様子が、声の質から多恵にはわかる。
「ほんとです、おねえさんみたいは女子が、いいんだけど」
「そうなの、良くん、わたしはねぇ、良くんみたいな男子、好きよ」
多恵は、良一の左側に座っている。右側になるほんのりと明るい良一の前に、左手をまわし、良一の右手にかさねる。良一は、多恵が抱きついてくる気配に、左腕を多恵の背中にまわしてしまう。多恵にかさねられた左手の指へ、良一が右手の指を絡ませる。多恵が、右腕を良一の背中へまわしてしまう。
「ねっ、いいでしょ、こんなことしても、いいのよね」
「いや、おねえさん、ぼく、ああ、だいちゃうよ」
良一の左腕にちからがはいり、多恵が抱き寄せられてしまう。女の唇からワインの甘い匂いを感じる良一だ。多恵は、ほんのり、ワインがまわっているから、からだが浮く感覚だ。
「ううっ、はぁあっ、うっ、ううっ」
男の良一に唇をかさねられてしまった多恵が、淋しさを紛らわす呻き声を洩らしてしまう。多恵の陶房、夜の九時半は静寂だけだ。電気のストーブが赤い光を放っている。多恵は、うっとり、良一の腕の中に沈んでいく。
「おねえさん、いいの、こんなことして、いいんだよね」
「はぁ、あ、良くん、はぁ、わたし、もう、だめ、わたし」
顔をあわせる、間近で、つぶやきの声を洩らしあう多恵と良一。多恵が仕掛けたことだが、良一は戸惑いながらも、男は男の役割を果たす。多恵が、椅子から尻をもちあげ、空いた左手で、下穿きを脱いでしまう。そうして良一のベルトを外してやり、前をひろげてやり、男のモノを弄っていく。良一は、なされるがまま、多恵の背中のファスナーを降ろし、ブラを着けたままの胸へ手を入れてしまう。男のモノをぎゅっと握った多恵。乳房を弄られるなか、多恵は良一の唇を求めていく。良一は、キッスしながら、右手を乳房から腰へと下ろし、スカートのなかへ手を入れてしまう。ショーツを脱いだ多恵の腰から下だ。良一が、温かい多恵の太腿をまさぐる。まさぐられる多恵は、もう十数年も前の記憶をよみがえらせながら、膝をずらせ、太腿をひろげだしてしまう。

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秋立ちて-14-

-14-
 松宮良一は哲学の道の土産物店の従業員で28歳の好男子だ。陶芸家の多恵が、真面目そうな良一に好意をもっているが、この男のことは詳しく知らない。知らないままに、自分の想いにまかせて、夜の陶房へ訪問させてしまった多恵だ。ワインを三杯も飲んだあとのことに、後悔はない。良一にぎこちなく抱かれ、座っている三人掛けの幅広い長椅子に仰向いて寝かされた多恵。
「ううん、いいのよ、良くんのすきなように、ああっ、わたし」
「おねえさん、ぼくは、好きです、おねえさんのこと、好き」
仰向いた多恵へ、良一がうえからかぶさる。ワンピースを着けているが、乳房が露出している多恵。スカートがめくられ太腿が根元まで露出している多恵。まわりは暗い陶房のテーブルには60W電球の光が落ちている。電気ストーブのヒーターが赤い光を放っている。静かな多恵陶房の作業場だ。良一のモノは勃起している。多恵は、覚悟している。仰向いて、寝そべって、膝を立て、太腿をひろげる。良一が、その間に足をのばして俯き、多恵の女処へ、自分のモノをあてがった。
「あっ、良くん、ああっ、はぁあああっ」
多恵の喉から、ため息のような呻き悶えの声が、洩れる。十数年ぶりに覚えるヌルっとした滑り感だ。火照ったからだが、反応してしまう35歳の女盛りだ。
「おねえさん、ううっ、ああっ、だめだ、いっちゃう、いっちゃうぅ」
良一は、なにも準備をしていないから、イク寸前に抜き去って、多恵の黒い毛の上部に放出してしまう。多恵にも、いま、ここで、こうして、このようになる、とは思いもかけなかったから、なんの準備もないままに結んでしまった。大きなアクメを迎えたわけではなかったから、気を失うことはなかった。良一の呻く様子が薄暗いなかでわかった。半裸になっている自分に気づいた多恵が、伏目で身を整える。良一は良一でズボンをあげ、シャツをおろし、身を整える。無言のままだ。カサカサと洋服の擦れる音が耳にはいる。ショーツを穿かないまま、スカートを降ろしてしまう多恵だ。
「うううん、なにも、いわないで、いいのよ、良くん、いいのよ」
良一が、何か言いたそうな素振りを見せるが、言葉にはしないで、多恵のからだを見つめる。多恵が、言葉をかけてしまう。
「あした、もってきます、お金」
「無理しなくてもいいのよ、食べる分のお金くらい、あるから」
「でも、ぼくは、おねえさんと、また、会いたいから」
小形のラジオをつける多恵。夜半の番組はお笑いコンビのトークだ。静寂を破って、甲高い男の声がラジオから流れ出てきた。

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秋立ちて-15-

-15-
 月刊誌陶苑の新年号に、京都の陶芸家大田多恵を特集に入れるということが編集会議で決まった。陶苑は北村信之が編集次長の陶芸を扱う専門誌だ。編集部員の野村真紀が、大田多恵の素性を調べてきた。多恵の祖父になる大田耕三が、京都財界では相談役的存在だということが商工リサーチでわかる。家業は日本古来からの装束を制作する技術集団を抱えた会社経営だ。多恵の父親大田安蔵が別会社を経営し、IT産業に進出し成功している。推測になるが、大田耕三が会長の太田産業という会社は、大田家の不動産を含む資産を運用する会社らしい。
「北村次長、大田産業って、大田家の財産が隠されてるようですよ」
真紀がリサーチした情報を北村に報告する。
「そうだろうな、京都財閥だし、老舗で、信用力もあるし、なっ」
「どれくらいの資産があるんでしょうね」
「想像によれば、だ、数百億、いや一千億以上かも」
「そんなにあるんですか、大金持ちなんだ」
「個人資産と財団資産があり、学校法人も持ってるし、表には出ないが、だ」
「多恵さんは、そこのお嬢さまですか、特集組んだら、話題になるでしょうね」
「そうだな、大田家の家系と枠組みは掴んでいる、いい家柄だろ、話題になる」
「京都の奥深いところの財閥、なんですね、大田家って」
「そこのお嬢さまなんだよ、大田多恵、35才、独身、詩人でもあった」
「大田神社ってあるじゃないですか、その神社と関係してる?」
「それはない、ただ、北大路廬山人が生まれたのは、そのあたりだった」
「北村次長とは、大田多恵さんと、どういう関係でしたの、知りたいわ」
「もう昔のはなしだ、同人誌をやっていてね、その同人に大田多恵ともう一人女子がいたんだ」
「ひょっとしたら、もう一人って、あの、エッセイストの、水際紗子さん?」
「そうだよ、あの水際紗子だ」
「そうでしたか、じゃ、水際さんに文章を頼みましょう、写真はわたしが撮りに行く」
「水際かぁ、いいな、対談させてもいいな、大田はまだ無名だ、水際は旬の女子だ」
「対談ですか、いいですね、おんなふたり対決なんて、陶芸家とエッセイスト」
大田多恵の作品紹介ページと生活スナップ写真は、カメラマンもこなす野村真紀が担当する。作品批評は北村が卒業の大学の先輩、現代美術評論の沢木治郎に依頼する。水際紗子は引き受けるだろうか、北村の脳裏に、記憶がよみがえる、大宮太一のことだ。現場を目撃したわけではないが、死んだ大宮太一と水際紗子は、男女関係だったと推測できるからだ。
「わたし、水際さんに依頼してみます」
なにかにつけて才能を発揮する野村真紀だ。北村はまだ三十路まえの真紀を信頼しているし、鉄仮面のような冷たさを持っている真紀を、女体としても興味を持つところだ。真紀が、北村がいる編集室から水際紗子に電話で、大田多恵との対談を依頼したところ、すぐにOKの返事がもらえた。
「水際さん、よろこんでいましたよ、懐かしいいっ、て」
「そうだよな、いま、京都ブームだし、日本文化再浮上のときだから、な」
対談は京都の京陶苑でおこなうことも決まった。新年号に急遽入れる企画だから、締め切り日程が迫っている。

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秋立ちて-16-

-16-
 大田多恵と水際紗子の対談は、京陶苑の茶室でおこなわれることになった。紗子の誘導で多恵が答えるという流れだ。録画録音されるから動画としても編集される。北村信之と野村真紀が東京からやってきて、京陶苑オーナーの佐々木邦夫が立ち会うというのだ。四畳半の茶室は、京陶苑の店舗がある奥の庭の一角に設えられてある茶室で、昭和の建築だから文化財的価値があるわけではないが、茶道の本家が近くにある場所だから、若い茶道家らが茶の湯をたしなむ場として使われたりしている。
「ほんと、お久しぶり、多恵ちゃんの将来、おめでとう」
水際紗子は洗練されたセンスで髪のカットから斬新な洋服まで、いかにもエッセイストで詩人という容姿だ。
「ありがとう、紗ちゃん、久しぶり、お手柔らかにおねがい、ね」
大田多恵は和装だ。小面のような顔だちは、和服によく似合う。髪はショートカットだからすっきり。萌黄色の和服は実家の職工が染めた生地で仕立てられていて、淡い陶芸家の卵には眩いくらいだ。
「北村次長、ライトをあてさせていただいて、録画録音、水際先生、よろしくお願いします」
一番若いとはいっても28歳になる編集部員の野村真紀が、采配を振っていく。出番がない男二人、北村と佐々木は、カメラの後ろにあぐら座りだ。
 紗子からの話題は、多恵の作品制作の方法を訊くことから始まった。多恵陶房を主宰し、主に作品はそこで仕上げているが、作品によっては登り窯を使わせてもらっていることや、釉薬のこと、ろくろを使うが、手びねりの方が多い。制作過程の説明はそれなりに明快に進む。話は、学生時代の紗子と多恵の話題になる。いまやすでにエッセイストとして本を出し、連載エッセイをいくつかの婦人雑誌に載せている知名度と、まだ認知度がない陶芸家多恵の対談で、学生時代を共にしていたという話題だ。
「多恵ちゃんは、詩人で、キラキラ光る言葉の連なりだったよね」
「そうだったかしら、王子様への憧れがあったし、ね」
「多恵ちゃんの陶芸、そのキラキラ色彩の感覚は、そこから来てるのね」
「暗いの嫌いよ、明るいのがいい、やっぱり明るいのがいいでしょ」
多恵は本音とは違う、表向き言葉で、自分のことを語る。対談のなかでは、家系のことには触れないが、記事全体のなかで、大田多恵が良家のお嬢さま、という印象を描くというのだ。対談は、表向きの話で一時間、四畳半の狭い茶室でおこなわれ終わった。京陶苑の店内で野村真紀がスナップ風写真を撮る。和服で撮って、着替えて、ワンピースの洋服で撮って、その日の取材が終わった。翌日には、真紀が多恵の陶房を訪ねて、写真をとることになり、北村、多恵、紗子の三人は、タクシーでブライトンホテルのロビーへと向かった。

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秋立ちて-17-

-17-
 ホテルのロビーにある喫茶ルームへ、北村信之と水際紗子と大田多恵、この三人がテーブルを介して座った、大学卒業以来十数年ぶりに顔を合わせた三人だ。
「コーヒーにする」
北村がそういうと紗子と多恵もコーヒーにすると言った。東京からの来客、北村はスーツ姿、紗子は赤いドレスを着ている。多恵は和服からワンピースに着替えていたが外出着だ。
「久しぶりだよ、もう十五年が経つのかな、早いなぁ」
「そうですよ、早いですよ、あっとゆうてる間に、三十五」
「紗子とはおない年だから、わたしだってね」
「ぼくは、もうアラフォーだよ、紗子と多恵、懐かしいよ」
「紗子さんは、エッセイストで売れてるから、収入もたっぷりでしょ」
「それは、まあ、そこそこの値段で請け負うから、でも保障なしよ」
「北村先輩は、会社員なんでしょ、お給与制なんでしょ」
テーブルにコーヒーが運ばれてきた。話を中断して、コーヒーカップがテーブルに置かれ終わるのを待った。
「独身だな、われら、どうしたことか、独身だ」
「そう言われてみると、紗子さんも独身なの」
「そうよ、まだ、適当な男が見つからないのよ」
紗子が、つまらなさそうに言葉を紡ぐ。
「わたしだって、縁、ないわ、でも、まだまだ若いんだし、いいんじゃない」
「そうね、いまだから、いいかな、ほら、大宮太一って男子、いたじゃない」
「病院の跡取りだった奴だね、医学部生だった奴、死んだ奴」
「そうよ、その大宮さんと、わたし、好きあったのよ」
告白だ。紗子の告白は、好き合っていたというのだ。紗子が卒業したら結婚したいと言ったという。同棲するところまでは、大宮の実家の手前上、紗子と大宮は考えなかったが、それに近い関係だった、と紗子がいった。思い出してみると、それとなく、その気配は感じとっていた多恵だったが、こうして告げられてみると、それは明らかになった。
「そうだね、ぼくは太一から聞いていたよ、悩んでいたんだ」
「そうでしたか、北村先輩は知っていたんですか」
「太一が言ったんだ、言い方わるいかも知れないが、女に逃げていたんだよ、太一は」
「わたし、卒業して、結婚なんて考えていなくて、恋人のままでいようと思ってた」
「いや、太一が死んだのは、紗子のせいじゃないよ、病院を継ぐことに反発してたんだ」
「そうね、大宮さんは、音楽にも文学にも精通していて、文学青年だったですね」
「透谷とか、太宰とか、好きだったから、死神に取り憑かれたのかもなぁ」
「彼、大宮さん、何度も泣いたのよ、わたしを抱きながら、泣きじゃくってた、それが可愛くて、わたし抱きしめてあげて、温かい肌してた、それが死んだのは、わたし、別れてからよ、お父様がどうしても許してくれないといって、でも、死ぬって、そんなことで死ねないわよね、わたしだって、なにが彼をそうさせたのか、わからないのよ」
紗子の話は、淡々と、言葉を選びながら、語っていた。多恵は、ふっと松宮の顔を思い浮かべた。この前の夜、関係した男子だ。結婚。その相手として松宮を考えることはいけないことだ、と思う多恵だ。北村と紗子を前にして、脳裏に浮かんだ松宮良一のイメージを、多恵は消しにかかった。

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秋立ちて-18-

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 紗子と対談した翌日は、昼前に野村真紀が陶房にいる多恵のポートレートと制作作業風景を取材しに来た。約束どうり午前11時にやってきた真紀は、若い旅行者の格好で、キャノンのカメラを首からぶら下げ、背中にはリュックだ。ロングスカートは渋い茶色で乳白食のジャケットを着ている。
「ここですか、いいですね、静かで、京都ですね、いいですね」
玄関から窓際のテーブルには座らないで、陶房の作業場に入ってき真紀の図々しさに、京都人の志保には、ついていけないなぁ、との感じを持ったが、それも志保には行動派で好感が持てる女子だと思う。
「そうね、作業場で、物置になってるけど、ここ背景でお写真、おねがいします」
「道具がいっぱい、それに乾燥中の器も入ります、いいですね」
真紀が手際よくシャッターを切ってきて、動作をする志保をスナップされる志保。玄関からいうと奥の開いたところが野の花が咲く庭だ。ちょうど秋海棠の花が咲いている庭に、真紀が魅力を感じたのか、目を見張った。
「いいですね、京都のお庭ですね、ナチュラルで素敵です」
「野村さんは、まだお若いんでしょ」
「そうですね、でも、28になっちゃったんです、この前」
「若い、まだ、まだ、これからね、真紀さんは、多才ですね」
「大田さんは、詩人になりたいとか、それが陶芸ですもの、素敵です」
真紀は小一時間取材して、お昼ご飯前には、銀閣寺と哲学の道と南禅寺を散策して東京へ戻るといって、多恵陶房を出ていった。来客が帰ったあとはお昼だ。多恵は、まだお腹も空かないから、昨夜に取り出しておいた同人誌を開いてみる。多恵は、同人でいろいろあった出来事を思い起こすけれど、同人ではなかったオーケストラ部員だった島崎和則のことを思い出す。思い出すというより、深い関係だったから、二十代の頃は思い出すのが辛かったが、最近、三十を過ぎたあたりから気持ちは穏やかに光景だけが浮かんでは消えるようになった。
<そうよね、もう十五年だもの、いまや昔、よね>
水際紗子が自殺した大宮太一と恋愛関係にあったと、昨日、聞いて、腑に落ちなかった思いが払拭された多恵だった。多恵には、誰にも言っていない彼がいた。オーケストラでバイオリン弾きの島崎和則。大学で一年の時、同じクラスだった男子だ。好きになった。どうしたわけか、密かに会うようになった。島崎が恋人だなんて秘密にしておきたかった。関係したのは半年ほど交際したころだ。セックスにのめりこむことはなかったが、そののち、感情のもつれから、別れることになって、多恵にはそれ以降、恋に深入りはしなくなった。
<松宮くん、良くん、いい男子だわ、からだを潤ませる人に、なってもらうおうかなぁ>
家柄からしても、松宮良一と結婚なんて、できるわけがないから、遊ぶといえば汚らしいが、そういう関係でいたいな、と志保は思った。イケメンだし、逞しいけど、なよなよしい処が志保には愛らしい感情を育ませる。そうそう、あのことがあった翌日、午前中に十万円を封筒に入れて持ってきてくれた。律儀な男子だ、と多恵は感心した。

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