淡水日記180607

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いま、大覚寺の裏というか境内の外、北側に、名古曽の瀧跡との石碑が立っています。
道路を挟んでこの碑の北角には、中御所跡との石碑が立てられています。
この碑の撮影は2018年6月1日で、写真に収め公表するは、これが最初です。
というのも、写真イメージと文字・言葉との整合性を考えているからです。
でも、最近は、写真の中に文字を入れこまないと、写真の意味が成立しない写真。
これも、ぼくの写真作品に加えてもいいかと、思うようになっています。
名古曽の瀧というのが嵯峨離宮の庭にあって、その水が枯れて、石組みが残っている。
いま、詳しくは書きませんが、このあたりが平安京最初の頃だと思いますが、屋敷跡だった。
1200年ほどまえの出来事を、いま言い伝えの中で継承して、自分のイメージをふくらませる。
そんな作業をしながら、日々を送っている自分というぼくが、ここにいるのです。

淡水日記180530

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たくさんのブログを作っているのは、フォトハウス表現塾の広報が目的です。
手をひろげすぎて、思うように記事が書けないようになってきています。
しばらく、このブログは、休眠です。
記事はホームページに転載を終えたのでクローズしようかと考えました。
いましばらく、このままの状態で存続させて、いずれ再開かクローズかを決めます。
よろしくお願いいたします。


posted by utumiawami at 10:45日記

淡水日記180523

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最近、京都紹介番組で現れる京都イメージの五重塔を撮ってきました。

昨日、2018.5.22、平日なのに、観光のレンタル和服の若い女性がいっぱいでした。

このブログも、文章が主体でしたが、内容変更していきます。

写真イメージを主体にします、よろしくお願いします。

淡水日記180522

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あれから三年、この三年、なにをしてきたんだろうと、反省期に入っている気がします。

三年前といえば2015年ですね、図書館に通ってたころです。

いろいろあって、気持ちが動揺し、我を捉えることができなくなって、浮動してた。

個別には語らないけれど、なんだか追い詰められていた気がします。

二年前には、2016年、風景論シリーズを秋までやっていて、終わりました。


それから、独立して、あらたに現在の<カフェ&プレス>の基本形を提起しました。

紆余曲折、ここまでやって来て、ちょっと屈折点に来ているのかな、とも思います。

といっても、この先のこと、屈折させて次の展開が分からない、ここに来ています。

作品をつくること、組織をつくること、それの総合としての活動、表現の形として。

まあ、そういうことでいえば、遠い所に来てしまったのかも知れません。


刑期中の人が、支援してくれている人に、文章やら色紙を預けている、とのニュース。

信頼できる人へ、信じられる人へ、その人は、ひとりだけでいい、その気持ちだろう。

わかる、わかる、というより、推測する、推測します、その答えを我に返します。

過去を振り返ることが多くなりました。

もう老年にまでやってきたからだとも思うが、未来をみていきたい、と思います。


京都へやってきたときの長谷川等伯をブロンズ像にしたのが、掲載の写真です。

能登から京都の本法寺へ来て、世話してもらって、画業を達成していく等伯です。

等伯のことは、直木賞作家の小説で、読ませていただきました。

どうしたわけか、たまたま、ぼくのお寺が、この本法寺なのです。

なにかのご縁というところでしょうか、ぼくもがんばってみようと思います。

京都北物語-7-

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雲林院
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 またまた雲林院の話になりますが、写真の現在地は紫野雲林院町、北大路通り大徳寺の東南角になります。西暦822年から833年に在位されていた淳和天皇の離宮、紫野院が造営されたのが最初のようです。このあたり広大な荒野であったと駒札には記されています。869年に雲林院と呼ばれるようになったとあります。平安京造営の794年から30年ほど後にこと、現在あるこの門は、内裏から北東へ2㎞ほどでしょうか、船岡山の東200mほどでしょうか、このあたり荒野で狩猟もおこなわれていたと記されています。このあとに源氏物語の紫式部さんのことを書きたいと思っているのですが、源氏物語の執筆は1008年といいますから、140年ほど後のことになりますね。現在2018年で、明治150年といいますから、雲林院が出来て源氏物語が書かれるまでの時間軸は、明治から現在までの期間軸にほぼ等しいですね。時間感覚や年月感覚というのも、たぶん時代によって違うと思うのですが、時間軸ではそれくらいです。

 紫式部さんは、このあたりで生まれた女人ですが、彼女の周辺を少し書いておこうと思います。父は藤原為時という人、母は藤原姓ですが紫式部幼年期に亡くなられているとあります。父為時の説明には<平安時代中期、一条朝の貴族、歌人、漢詩人。藤原北家良門流、中納言・藤原兼輔の孫で、刑部大輔・藤原雅正の三男。紫式部の父。官位は正五位下・左少弁。>とあり、越前国の受領となるので、紫式部も娘時代の2年間、越前に過ごすとあります。紫式部の本名は不明だとされながらも、藤原香子(かおりこ / たかこ / こうし)また「よしこ」と読む、ともされているけれど、定かではないみたい。998年に親子ほども年上の藤原宣孝と結婚し、女子の母なりますが、夫は1001年に亡くなってしまう。宮中に勤め、歴史書の「今鏡」には紫式部の経歴として道長の妻・倫子付き女房であったことが記されている、とあります。ぼくのイメージは、漢文が読め、文章が書け、物語をつくる想像力が備わった、才女です。

 雲林院といい、紫式部の源氏物語といい、平安時代(794年~1192年)の初め頃から中頃にかけて、王朝文化といわれているのでしょうか、日本文化の形が、そこに見えてきます。その後には仏教文化が花開き、応仁の乱(1467年勃発~1477年終結)から戦国時代へ、本阿弥光悦が1615年に鷹峯に土地をもらって草庵を造り芸術村をつくるプロセスがあります。王朝が京都にあったということから、日本文化の発祥から発展迄、多分に、この地域(京都の北部)が大きく関係していると感じています。資料を紐解きながらエッセンスを書き出すという荒行をここにしているので、読みずらいところが多々あると思います。ぼくも知識的にはそれほどには専門的でないので、この文章を書きながら、勉強しているところです。先に上賀茂神社から書き起こして神道の枠組みを基底に置きながら仏教を合わせてくるイメージの日本史に、文学を併走させ、生活文化にかかわる美術工芸を見ていこうと思っているところです。思えば思うほど、ざるで水をすくっている感がしていて、現代表現ツールである写真や映像へ、どのようにつなげていくのか、を模索しているところです。