寫眞-22-

<寫眞:元伊勢神宮>2 2017.3.3
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寫眞-21-

<寫眞:元伊勢神宮> 2017.3.3
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淡水雑記171231

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 ピエタの像、マリアに抱かれるピエタさま、というところでしょうか。どうしたわけか、手振れが起こっていて画像がぶれていますが、撮るときに心がふるえていたからだとも思っています。もう十数年前のイタリア旅行のときに、撮った一枚です。いま、ちょうど、大晦日の午後二時です。ベートーベンの第九交響曲を聴いています。第二楽章あたりをやっています。トスカニーニ指揮、1952年録音、でしょうか。もう半世紀以上も前の演奏ですね。音響設備が、どんどん良くなって迫力ある音に再現されますが、それでいいというのではないですね。内容、なかみ、それが一番の関心ごとにならないといけないはずですね。なにごとも外見ばっかりで中味の事がおろそかになる、というより論じられることが少ないですね。この中味とは、それが人間個人の感情に、どう入っていくのかということでしょうか。

 感情のことが表面に起ってきて論じられるという手法あるいは内容は、たぶん、最近のことではないでしょうか。ぼくは主たる論の現在形は、この感情というか、情に根ざした論を書き込むことではないのか、と考えています。大きな世界の出来事を、事実だとして論じる論じ方も必要であろうと思いますが、そうではなくて小さなことかも知れないけれど、情のこと、情の事、情事なんていうちょっと裏側的なイメージの言葉にみちびかれていきそうですが、そうではなくて、情のことです。なに?、不倫ってことをマスコミがとらえます。マスコミと言ってもスキャンダルな側面で、週刊誌ネタですね、正当な社会からは、情事はいけないこととなるようですね。でも、多くの人の関心ごとが、そういうスキャンダルを好む、とくに性にまつわるスキャンダルは興味津々ということでしょう。

 表現において、情を主体にするというのは、現在形の有効な考え方だと思っています。タブーにしてはいけない。そう考えています。でも、それは淫らなとか、不健全とか、なにか別のモノという感覚で捉えようとしているところで、芸術の真髄を否定したらいけないよ、と言いたいところです。心のあり方、精神の真髄、それらは人を愛するという基本的なところに立って、物事を考えないといけないと思うのです。第九の合唱のところです、心が洗われるとは、こういう感覚をいうのでしょうか、細い、繊細な、愛情の滴り、とでもいえそうな音です。ピエタの像もベートーベンの第九も、日本的じゃなくて、ヨーロッパ的ですね。これはぼくが」受けた教育によるところから来ている感覚です。戦後からの半世紀は、日本的なんてことは主たる関心ごとからは排除されてきたように思えます。そうですね、ここは日本、極東の文化のなかです。

淡水雑記171223

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何度かにわたって寫眞と題して、一回に10枚の写真をアップしてアルバムを作っています。ここ最近は奈良の香具山へ取材にいって撮った写真、順次、第一セレクトの段階の写真を載せています。神代の出来事なんて、事実ではなく、想像のたまものだといっても、けっこう興味ある領域になってきています。これは人生、長老になってきて、想像力の世界がひろがっている証拠のようにも感じていて、それを受けとめようという心理です。若いころには実存主義だ、弁証法だ、史的唯物論だ、哲学的なあの手この手を身につけて、語って、それらの知識で自分という鎧をつけようと思っていたように思います。いま、古希を迎え終えて、いまさら、そんな論理より、想像力、空想力、そういった雲の上の出来事のような、ふわふわに興味を持ち、そのなかで生を終えていければ、幸せなんだろうな、と思うようにもなってきています。

かなり昔の、といっても所詮60年ほど前の光景ですが、写真があります。それをここにコピーして載せます。ここには自分も写っていて、気恥ずかしい限りですが、長年、写真とは何か、なんてこと考えてきて、いまだに結論なんて導けていないけれど、ロラン・バルトは母が写った写真をもって、一つの結論らしきものを導いたと思っています。その枠組みから写真についての論を導くならば、ぼくが写った写真、ぼくの家族が写った写真、これらの写真が持つ、その意味を問うことから、もう、写真を離れて、これは哲学だろうか、論理学だろうか、理性で説くより情で説く方が理にかなっているようにもイメージしています。情なんですよ、情感なんですよ、それの伝達媒体が写真という静止した画像の示す意味、分かりにくいな、写真とは何か、ということの答えに近いところで、情、という感覚かも知れないと思うのです。
(続く)