嵯峨野慕情-9-

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-9-(フィクション)
 そのお方が嵯峨の美術大学で学ばれたのは、もう何十年も前のことではないかと思います。お年が四十の半ばを越えていらっしゃるのではないかと推測しました。だからそのお方にとっては、二十数年前のことですね。あのとき、二回目にお目にかかった時、ぼくがそのおしとやかな身のこなし方に、京都にお住まいだったのではありませんか、とお尋ねしたら、京都に縁があった、大覚寺にはよく行きましたと、そういうことをおしゃったのでした。そのお方の話では、まだ当時は短期大学のころでした、日本画を学んでおりましたの、そのころ、嵯峨に下宿しておりましたのよ、冬は底冷えがして寒かったですね、懐かしいです、とおっしゃるのでした。日本画を学ばれたということで、いま、絵描き稼業をなさっているようにお見受けしました。いかにも絵描きといったふうに、生成りの淡いワンピースを着ておられて、おだやかな表情で、そのお方は、美人でした。嵯峨の名古曽という処に下宿しておりました、とおっしゃたので、ぼくは、数日後には、その地名を探しにその界隈を散策したものでした。大覚寺の北に位置するその区域は、少し大きめのお家が、新興住宅地の様相をもって建っておりました。そのお方の匂いが立ち込めているようにも思えて、空気を吸ってみました。幾十年もまえに呼吸された痕跡が、今にも匂ってくるようにも思え、このあたりで、そのお方が、呼吸をなさっていたのだと、想いを馳せるのでした。

 そのお方の展覧会を神戸で見ました。個展ではなくて、数人のグループ展でしたが、そのお方は少し大きめのサイズで絵を描いておられ、額装されておりました。赤が基調のアブストラクトで、潤一郎の卍をイメージ化してみたのですと、おしゃるのでした。なるほど谷崎の作品をイメージして絵にすれば、このようなイメージになるのか、とぼくはその関連を自分の中に意味づけようとしてみました。
「ご本は、お読みになるのですか」
ぼくは、淡いワンピース姿のそのお方の髪の毛が、ショートカットでボーイッシュな感じで、だから清潔な印象をもったのだと思います。
「絵を描くあいまに、短いのしか読めませんが、ぼちぼち」
「そうですか、谷崎の小説は、ぼくも少しばかり読みましたよ」
そのお方は絵画、絵の具は日本画を描く絵の具でしたが、イメージはアブストラクトで、写実ではありません。陶芸の作家、布の作家、それに絵の作家、三人展でした。神戸の港まで歩いて五分とかからないビルの一角にそのギャラリーはありました。
(続く)

嵯峨野慕情-8-

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-8-
 嵯峨野慕情という写真と文章を組み合わせた記事を書いているところですが、この先、どうしていこうかと悩むところです。記事をアップすると、アクセスが50人ほどあります。アップしないと極端に少ないです。やっぱり毎日のこと、アップしていくことが必要なんだと、思います。ぼくは書くばっかりで、人様のブログはあまり見ません。自分を発信するツールとして、SNSとは違った意味で、ブログを更新するところです。仲間内だけで共有したいというよりも、知らない人へ伝える、俗にいう読者をつかむ、ということに向けていきたいと思っているからです。出版物として書籍にして書店に並べてもらう、なんてことは遠く及ばないから、今様ツールのインターネットを使って、紙媒体からネット媒体へつないでいるのです。

 さて、あっちへいったりこっちへきたり、雑文の集積みたいになっているこの嵯峨野慕情ですが、どうしようかと思い迷うところです。読者の方、めんくらっていらっしゃるかも知れません。フィクションでもなく、ノンフィクションでもなく。フィクションでもあり、ノンフィクションでもあり、そんなのが混在している内容です。たぶん、ぼくと面識あって、このブログの記事を読んでいただいている人が数人いらして、その方を意識して、書いていこうかと思うところです。論でもないし、エッセイとかでもないし、戯言でしかないのですが、これがたぶん、現代のネットにおける、文章ではないかとも思ったりします。ここでは、気になる方への伝言、というメッセージで、読んでほしい方には届いていないだろうなと思いながら、数名の方、facebookでイイネをしてくださっている方がいらして、見えない相手から、見える相手になってきて、恐縮するところです。
 ☆
 昨日の日付で追記のつもりで書いていますが、最初から、書き改めています。いま、みちのくを旅していらっしゃる御方のことを、そのイメージで嵯峨野慕情のセクションとして書こうと思っていたところでしたが、まだ、まとまっていないから、書けない、そうなのです。嵯峨野慕情は、女子のお方の悲哀をベースにして構成していきたいと思っているところですが。ええ、嵯峨、嵯峨野に関連する御方、といってもぼくの個人的感情のなかで関連している御方のことをエッセイ風物語として、あたかも事実のように描いていけないかと思うのです。いやぁ、情緒というか、しっとり感というか、嵯峨、嵯峨野のイメージに即すイメージをかもしていけたらいいのになぁ、と思います。奇抜性は望みません、オーソドックスにしんなりと枝垂れる感じで、文章イメージが作り出せたら、いいなぁ、です。

嵯峨野慕情-7-

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-7-
 ぼくが嵯峨野にこだわる理由のひとつは、ぼくが通った高校が、嵯峨野高校だったということに起因しています。ぼくの意識レベルで、まるで故郷の意識で、この嵯峨野地域を俯瞰的にイメージしていると思うんです。生まれ育ちの場所は紫野で、いまもって紫野に住まっているから、故郷は遠きにありて思うもの、なんて感覚がわきません。でも、嵯峨野には、地理的には全く遠くではないけれど、室生犀星が言ったような故郷感が抱ける地域でもある感じがします。いくつか物語を書いていますが、その舞台は嵯峨野をイメージしてフィクションの風景にいただいています。ただ、ぼくのなかで、嵯峨野と嵯峨の使い分けをしたいと思っているのだけれど、なんとなく嵯峨野は近代、嵯峨は古代、みたいはイメージですが、うまく使い分けができません。具体的には住所地番があって、嵯峨野何々町っていう区域地番と嵯峨何々町という区域地番があるから、それに従うのが良いのも知れない。

 嵯峨といういいかたをすれが、嵯峨の名前がついた学校があります。嵯峨美術大学、今年度からこの名称になって、以前は京都嵯峨美術大学、それの短期大学でしたが、最初のころは京都嵯峨美術短期大学だったと聞いたことがあります。嵯峨野は高校で、京都府立嵯峨野高等学校です。そのむかしは女学校だったというので、ぼくが通っていたころのイメージは、なよなよしい、女々しい、男らしくない、そんなイメージでしたね。その当時にもそう思っていたけれど、いま、あらためて、そのイメージがあります。小説の底流をそのイメージにしたいなと思うところです。嵯峨美術大学に学んだという御方が何人かいらっしゃって、数名の御方、女性ですが名前が浮かびます。短期大学で学ばれたと聞いていますが、それらの方の作風というか、お人柄は、とってもしなやかな、上品な感じがしてなりません。校風というのがあるとすれば、大覚寺が経営する大学だ、というイメージにつながっているのかも知れません。

 この欄に続きの文章を書いていて、書き終わる直前で止まってしまって、時間が経って、消えてしまいました。書いた記事が、ここには載せるなというメッセージだったのかも知れないです。いや、それは、舌が滑るというか、本音を書き始めたから、パソコンの側でセーブをしてくれたのかも知れません。なので、その内容については触れないことにします。30分ほど反応がなかったので、どうしようかと迷っていたら、消えてしまったというわけ。ここ、嵯峨野慕情は、物語でもなく、エッセイでもなく、わけのわからない枠組みで文章を綴っているので、まとまりがない。フィクションにしようかとも、夢の中だったか、思ったところです。物語は、別のブログで試みているから、ここは物語ではない物語を作っていこうと思っているんです。でも、それは、通じないんでしょうね。この項は、ひとまず、ここで、終えます。

嵯峨野慕情-6-

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-6-
 そこは嵯峨野ではなくて、嵯峨の地名になると思うのですが、祇王寺という庵があります。ここの庭は、手入れがされていて、一面、苔に覆われています。前にも触れたけれど、この祇王という女子。白拍子だというから、当時の京の路上で、ダンサーをして投げ銭してもらっていた踊り子、舞妓。たぶん、投げ銭で稼いでいたんだと思っていますが、この女子が近江野洲から母妹とともに京都へやってきた。祇王は時の権力者平清盛の寵愛を受けたというのです。その後、清盛に捨てられ、隠居の場所として、いまある嵯峨の山裾に住んだというのです。なにかしら、詳しいことを知る由もないのですが、棄てられた女、としての悲哀なのでしょうか。悲哀の女子イメージで、語られることが多いですね。

 この祇王寺と並んでいるのが滝口寺。詳しくは知りませんが、小説で滝口入道というのがあります。ウイキペディアで調べると、高山樗牛が1894に書いた小説だとあります。西暦1894年というと、明治の何年になるのか、明治30年代のころでしょうか。滝口に控える武士、宮中を護衛する武士、滝口とは宮中の一番奥に控える武士のこと?でしょうか。祇王寺と滝口寺が並んであるとことが、観光スポットでもあるんですね。祇王の物語は、物語としては書かれていないと思うのですが、もう半世紀以上も前、1965年にぼくは19才で、祇王を主人公にした小説を書こうとした、書いた、一応、書きました。ぼくの処女作ですが、どこにも発表はしていません。いまその原稿は、手元にはありません。ぼくの記憶の中にだけ、存在するフィクションです。今なら、どんな風に書くだろうな、いろいろと思惑するところです。

 小説で思い出すのですが、樋口一葉って女子がいらっしゃるじゃないですか。明治のいつごろ?まだ硯友社が文学の中心だったころの女子だったと思います。これまで余り詮索しなかったけれど、彼女は文学、近代文学の枠組みで小説を書いた、のではなかったか。たけくらべ、おおつごもり、小説を読みました。哀しい気持ちがする小説でした。読み直してみたいが、いまはその時間がない。記憶だけで語ります。淡い恋を感じさせる話。大晦日に支払う金がない、という貧乏の話。なんかしら少女の語り口のように思えるのは、一葉の肖像写真のせいかもしれませんね、お金の顔、五千円ですかね。わすれたけど、明治のまだ日本の近代文学が十分に成熟していないころの、ロマンリアリズムなのではないですか。金子みすずって女子もそうだけど、俊山晶子さんもそうだけど、感性豊かですね。ぼくもおおいに見習いたいところです。

嵯峨野慕情-5-

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-5-
 嵯峨釈迦堂、清凉寺で撮った桜の写真を掲載しました。3月18日に赴いたときに撮った写真で、河津桜とか、早咲きの桜だと分かりました。それから以後、嵯峨から嵯峨野方面へ、何度か入っていきます。かって高貴な方が嵯峨へ赴くときの道を探しながらです。千代の古道という石の道標があって、どうもこのルートが高貴な方が通った道のことだとわかりました。このルートひとつだけなのか、それともほかにもルートがあったのか。ある意味で、そんなこと、どうでもいいことなのだけど、けっこうこだわったりしてしまいます。もう7年ほど前に、立命館の京都学講座を受けたことがあって、その中で、そのルートの話があったことを思い出していました。それは、市中から木辻通りを西にきて、という話で、この道は妙心寺の門前になります。つきあたりが双ヶ岡で、そこから今でいう丸太町通りを通ったのか、一条通りを通ったのか、わからないのでした。でもたしか太秦の広隆寺のなかを通ったというはなしで、三条通りを、帷子ノ辻から車折神社のあたりから、嵯峨へ入ったのではなかろうか、と推測したところです。いま、まだ、ぼくの中でそれは解決していませんが、その後、千代の古道のことを知ったので、次に記述しておこうと思います。

 千代の古道は、広沢の池の西から大覚寺にむかって進む道でしょうか。広沢の池の前は一条通りで、自動車道は嵯峨の清凉寺手前を左にとれば嵐山にいたる道です。この道ではなくて広沢の池横の神社の裏から農道にはいっていきます。このルートは、先に知ったので歩いていって、先日、大覚寺まで行きました。それとは別に、一条通り、山越バス停の向かい側に千代の古道の道標があって、ここから広沢の池西側までの一条通りが古道だったようです。一条通り山越のコーナーから東南に柵で封印された道がありました。京都市が管理している地で、音戸山とあって立ち入りらないでくださいとの表示があります。実はこの道のどこかに「さざれ石」があると佐野さんから聞いたので、ちょっと後ろめたい気持ちでしたが、ゆるゆると昇っていくと、百mほどでしょうか、右に「さざれ石」の石標があって、その上に横幅3mほどでしょうかこんもりした石が見えました。国の歌にされている「君が代」のなかの詩句に、千代に八千代に、という言葉があって、この千代に由来している呼称なのだと、わかりました。市中から嵯峨への行幸は、この山を越えてきたのだろうかと、思う次第です。どうなんでしょうね、双ヶ岡の南、花園からこの道へはいって、一条に抜けていくのでしょうか。千年ほどまえのことです。

 嵯峨野には古墳があって、いくつもの古墳群になっていて、その調査がけっこうなされていて、専門外のぼくは、ついこの前まで、そのことを知りませんでした。知識として結びつかなかったのです。古墳といえば大阪泉南のほうとか、奈良の明日香とか、そのイメージでした。考えてみると、権力の移動によって都が定められ、その地の外郭に墓があるということです。でも、嵯峨野の古墳は、平安京が造営される以前のことのようで、まだ京都が都ではなかったときに土着していた、なんだろ豪族がいて、その人らの墓だったのか。渡来の秦氏がこの地を治めていたという話は、よく聞いた話で、そのことも含め、古墳時代には京都の嵯峨野も古墳時代だった、ということでしょう。嵯峨野慕情と言葉を繋いで、そこからイメージしながら、立ち昇ってくる知識を繋いでいく作業をしていて、かなりライブ感覚で、この文章を書いています。以前、原稿用紙を使って、ペンで記述していた時には、推敲に推敲をかさね、言葉のひとつひとつを吟味して連ねる、といったようなことをやっていたわけだけれど、いまや、そんなことはほとんどやらなくて、ライブで発信し、それが蓄積されていくという風です。まあ、中身が薄くなった、文体崩しだ、とでもいえばいいかもしれないです。