嵯峨野慕情-4-

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 嵯峨野を想うとき、その物語は悲哀に満ちているように思われてきます。物語といえば源氏物語や平家物語、随筆といえば枕草子に徒然草、俳句の世界では向井去来の落柿舎や句集猿蓑、芭蕉の嵯峨日記、古典文学の世界では、嵯峨及び嵯峨野を抜きにしては語れないほど、イメージは豊富です。そのイメージ自体が、ぼくには悲哀に包まれているように感じられるのです。これは主観の問題だから、当然、個人差があって、美しい、哀れ、艶やか、清々しい、いろいろとイメージをふくらませることができると思います。が、嵯峨野は、悲哀イメージです。女子の駆け込み処になっている直指庵とか、縁結びの祈願をする野宮神社とか、イケメン男子を想う女子の哀しみの影がつきまといます。源氏物語だって、女子の悲恋物語のような気がします。笛の音の話をこの前に持ち出しましたが、音楽の悲哀さでいえば、チャイコフスキーでしょうか。

 チャイコフスキーの凍るような寒々しさは、京都北部の山ぎわの寒さに通じるようにも思えます。チャイコフスキーはロシアの音楽家だから、その凍りつめたような旋律の繊細さが、寒さを感じさせ、悲哀を感じさせるのかも知れません。第六番の悲愴を聴いていた頃、祇王寺の祇王という女子のことをイメージしました。わたくし17歳のころです。嵯峨、祇王寺の市中のほうに清凉寺、嵯峨釈迦堂があります。ここの山ぎわの道を化野のほうへ行く途中に、精神科をもつ病院があります。この病院のことを知っていて、ひそかに、相談に行こうかと、思ったことが思い出されます。17歳の凍えた心を支えるものはなく、あったのは音楽でした。まだ文学に耽るまえのことで、チャイコフスキーの悲愴が、なんともいえない慰めの曲、ぼくへのレクイエムだったのかも知れないです。文学は、詩から小説へ、小説では堀辰雄から太宰治へ移行していくのでした。

 嵯峨野慕情というタイトルをつけて、物語を作っていこうと思っていて、フィクションとノンフィクションを重ねながら物語になっていったらいいなと思っているところです。別にフィクションで書いていて、淡雪の街が行き詰ったので「春の匂い」という表題で書き始めました。淡い恋、まだからだの関係になるまえの、青春物語を書こうと思っているのですが、本音ではリアルなセックス表現で書きたいと思っているところです。物語の女って表題の小説があったように思いますが、堀辰雄だったかですが、むしろ人間失格や斜陽の太宰に近づきたいな、とひそかに思っています。いまさら小説家を名乗るつもりはないけれど、書けば書くほどその表現の稚拙さが見えてきて、もう、やめようかと思いながら、やめられないでいるのです。もう高齢者講習を受けに行ってきた年齢です。ますます淡い恋の物語を書きたいと思うところなのです。

嵯峨野慕情-3-

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 広沢の池から千代の古道を通って大覚寺まで行く道からは、正面に愛宕山が見えます。もう春、青空、暑くいもなく寒くもなく、ゆらゆら歩いていくと向こうに黄色い畝が見えました。菜の花が咲いている、まだ畠の彩はそっけないけれど、黄色い花の菜の花が驚くほどに美しい。スマホで撮っておかなくちゃ、近くまで寄って撮らせてもらいました。今週は嵯峨野へ赴いて、イメージ創りをしていて、写真はスマホで撮っています。これまでだとコンパクトデジカメですが、それで撮っていたのですが、スマホ一本にして、撮ったコマのほぼすべてを採用することにしました。とはいっても、撮ったコマは、インスタにあげるモノはその場で編集してアップするようにしています。ライブです。これは正方形の画像となります。それとは別に、横にして撮るのは、ほぼ広角です。35フィルム換算で28ミリくらいの広角でしょうか。ほぼ単体レンズ感覚で撮っていきます。その一枚が、掲載した写真です。

 さて、千代の古道ですが、平安の頃のはなしですが、天皇が御所から嵯峨離宮へいくときに通った道、だとの説明がなされています。嵯峨野慕情というタイトルで物語を考えているところですが、どうもこの天皇さんの痕跡が、いっぱいあって、そのことを抜きにしては嵯峨野慕情が成立しないような気がしています。というのも、京都の特徴はといえば、雅文化であって、公家さん、天皇さん、そのことを意識しないとイメージが作れないように思えます。ぼくは、千代の古道の千代とは、加賀の千代さん、あさがおにつるべとられてもらいみす、って俳句を詠んだ女子のことかと思っていましたが、そうではないようですね。嵯峨野に女子と男子の物語を敷いて、文章にしていくかと思います。思い当たるのは祇王のこと、平清盛の寵愛をうけたという祇王。彼女は白拍子で、この子も加賀の小松出身でした。俗な言い方すれば、清盛に手籠めにされた、ということでいいのでしょう。男と女の物語は、悲恋ですし、悲哀を伴います。

 嵯峨野慕情、いま、聴いている音楽は、ヘンデルの音楽です。あまり聴いていませんが、つまり古典派だというから、古臭いと思って、バッハの次で、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンとくるわけでしょ。古典派五人の音楽家、そのひとりです。たしかに形式が先行しているのかも知れないけれど、なかなか聴いていて、ロンドとかフーガとか、楽式の研究みたいなのを、十代の頃、まだ音楽大学へ行きたいと思っていたころに少し本を読んだ程度ですから、中途半端です。日本には雅楽というのがあるじゃないですか。耳にすることはままあっても、詳しいことはまったく存じないところですが、笛の音、源氏物語の中に、笛を吹く方がいらして、その音色が素晴らしい、そういう場面があったと思うんですが、笛を吹いていたのは男子、だとばかり思っていますが、女子だったのかも知れない。最近の高校生らの吹奏楽団には女子が大半だそうですが、五十年前には、女子は笛ですよ、フルート、ピッコロ、それとクラリネットなど、木管楽器でしたね。様変わりしています。

嵯峨野慕情-2-

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 大沢の池は大覚寺の境内です。大覚寺の東にひろがる人工の池であるそうです。この池の北に名古曽の瀧跡があり、石組みが残されています。由緒あるといえば一帯が由緒ある場所で、嵯峨天皇の別荘(離宮)として創られたのが始まりだといいます。後になって寺となり、真言宗大覚寺派の大本山だそうです。それほどに興味があったあったわけではないのですが、旧友の長澤氏が、数年前からここに採用されて、雑務的な仕事をされていて、いろいろ話を聞きながら、ぼくにも近い存在として感じられるようになったのです。中秋のころには、この池に舟をうかべて観月の催しをされるというニュースを見ます。優雅な催しのようで、昔をしのぶ貴族の風情だそうです。あるいは、古式豊かな、とか文化の上層を感じさせてくれます。

 この池の北側に名古曽の瀧の跡があり、行ってみると小さな石組があって、たぶんこの石組は、その当時からのモノであるのでしょう。何の変哲もない石組ですが、その時代の知識を増やせば増やすほどに、イメージ化されてきて、ロマンな気持ちに誘われるのです。何の変哲もない風景、それが人のなかに蓄積された知識と知識が組み合わされて、イメージとなるのですね。そのイメージは、絵に描かれたイメージであり、言葉をイメージにした人たちの功績をいま引き継いでいるわけです。そういえば<物語絵巻>というのがあって、これは言葉による物語を絵に仕立てたもの。今でいえば、小説を写真イメージにしたり、映画にしたり、ということです。ぼくは、このイメージについてのオリジナルを紡ぎだしたいと思うのですが、それは可能なのでしょうか。

 慕情という映画があります。アメリカ映画で1955年に公開された恋愛映画でしょうか、男がいて女がいて、ハッピーエンドではないのか、はるか以前に映画館で観たけれど、忘れてしまっているのか、結末が導けない。あるいは、観ていないのかも知れません。観たように思っているだけかも知れません。観たとしたら高校生の頃、1964年頃で、封切館ではなくて二番館、京都の祇園会館か美松映画館あたりだろうと思います。その慕情という言葉というより文字が、ほんのりとノスタルジーを抱かせるぼくのなか感覚です。この文字を使いたい、場所のイメージは嵯峨野です。嵯峨の野、という言葉を使ったけれど、まとめて嵯峨野としたところで、区域は少し実際よりもひろがっていきます。嵯峨野って、北野といっていたこともあったとか、いま北野といえば白梅町あたりで、北野廃寺跡という碑も立てられていますね。この北野寺というのが、いまは太秦の広隆寺だ、とうろ覚え、どこかで読んだように思います。この文章を書いているのに、参考資料として新撰京都名所図絵、昭和34年白川書院発行の第二巻が手元にあります。若干、パソコンで検索していることもあります。


嵯峨野慕情-1-

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 京都の西、愛宕山の麓から嵐山の北、嵯峨といわれ嵯峨野と呼ばれている地域があります。いにしえ、平安京のころ、いまから千年以上も前から、そこに文化が栄えた痕跡が今に残っています。ぼくは郷土史家でもなければ歴史家でもないから、専門の知識は残念ながら持ちえていません。もう古希を越えてしまった年齢だから、いまさら新たな知識を頭に詰め込もうとは思いません。いや、嵯峨、嵯峨野、その地は、ぼくの歴史、個人史のなかでも、半世紀以上にわたって、その地と交わってきたと思っています。生まれ育ちは京都市内で、古い言いかたをすれば洛中に生まれ育った輩です。そういうことでいえば嵯峨野は鄙びた場所、都人からすれば田舎です。ここでは<嵯峨野>と統一して語ろうと思いますが、厳密には嵯峨といわれている地域に、想いははせていきます。嵯峨は小倉山のふもとから大覚寺、嵯峨野はそこから平地を含んで広沢の池あたりまでのイメージです。

 ここでなにを語るかは、まだ漠然としていて、詳細は決めていません。歴史考証をするつもりはありません。とは言いつつも千年の歴史の中に埋まった記憶を、今に呼び寄せてくることもまま起ころうかと思います。むしろぼく自身の立ち位置を明確にしていく作業なんじゃないかと思います。そのすべては、ぼくが16歳になって、高校生になったとき、その高校の所在地がたまたま嵯峨野にあった、ということからその話は始まります。昭和の時代で、東京オリンピックが開催されたころ、時代はそのあたりへ戻っていきます。いっておきますが、事実と非事実が混在する内容ですから、ぼくの自伝ではありません。ある時代の雰囲気をノスタルジックに醸しだせれば、文学として成立するのかな、と思うところです。

 科学の領域で、土星探索のはなしをテレビでやっていました。ゲノム編集の現況をテレビでやっていました。外に向ける研究、内に向ける研究、ここまで拡大しているという驚きを覚えます。人類の歴史、なんて大袈裟なとらえ方ではないけれど、個人としての認識のことについて、興味があります。歴史の奥行と全体をイメージとして捉えて、そのなかをスイスイと泳いでいる感覚です。すべては自分という個体の内部において行われている活動、これが生きているということの証しのようだけど、ぼくは自己中心に徹しようと思うのです。いいえ利害を自分に求める、というのではなくて、利己主義ではなくて、結局、客観といっても、そういう位置を確保すること自体、自分主義に基づいているのだと思うわけです。ぼくが生きた72年のおおよそ半世紀以上を、地場として形成されてきた嵯峨野というイメージに、ぼくは思いをひろげていこうと思うのです。

嵯峨野に想う-2-

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 16歳になるとき学ぶ高校が決まって、その高校の名前が嵯峨野高校でした。それまでは、街の中に住んでいた身にとって郊外に所在する高校にいくことになるなど、思いもかけないことでした。当時の京都市内の中学校から公立高校の普通科に通えるのは、個人の選択ではなくて小学区ごとの割り当てで決められていました。前の学年の人は山城高校でしたから、当然の事、ぼくもそこへ行くことになる予定でした。が新聞紙上での発表を見ると、嵯峨野高校になっていました。嵐電の北野白梅町駅から嵐山の方へ、帷子ノ辻の一つ手前の駅、常盤の駅前にある学校です。まわりは農地で、田舎な感じがして、都会センスを失う感じがして、行く気がしない気分にもなって入学式を迎えました。

 住めば都という諺があるように、その学校に慣れていきます。高校野球の夏の選抜大会予選に出場するというので応援にいきます。応援といっても応援団があったのかどうか、ブラスバンドはありませんでした。強いわけがなく最初の試合で敗退していました。入学してすぐのことだったかと思います。気になる女子があらわれました。きっかけはわかりません、なにに惹かれていったのか、わかりません。かわった女子というか、田舎っぽい女子というか、訳ありそうな女子で、夏休み前には気になっていて、40日間の夏休みが哀しみの夏に思えた気持ちがよみがえってきます。初恋ではありませんでしたが、好きになって会話を交わすようになった最初の女子でしたから、これを初恋というべきかも知れません。誘われるままに青少年赤十字のクラブに入部しました。興味のあった新聞部に入部しました。クラブはこの二つで、青少年赤十字は夏のおわりに辞めました。新聞部は、その年のおわりまで在籍していて、先輩になる林という男子の影響をうけます。

 思想的なことはまだわかりません。青少年赤十字が右系だとすれば新聞部は左系的な区分けでしょうか。どちらのクラブも女子が多かったように思います。一年先輩だから二年生の女子たち。いまも何人もの顔を思い出しますが、まるでお姉さまで、まるで弟扱いされたような気がします。新聞部にいた女子は、良家の子みたいな風にみえます。部室のテーブルを囲んだ長椅子に座って隣に女子がいて、押し合う格好で横に並んで、先輩女子は、いいのよいいのよ、と言いながらぐいぐいと腰を寄せてきたのです。そんなに接近して密着するなんて初めての事だし、相手が女子だし、久我美子みたいは顔立ちなので、その密着した女子は好意をもった先輩でしたから、内心、あわてふためき、青春の感性を揺すられました。女子はしょせん女子なので、友達になって交流するということはありませんでしたが、気になったひとりだけに、高校生活の三年間を揺すられてしまいます。
posted by utumiawami at 14:17物語