寫眞-15-

<寫眞:神戸へ> 2016.11.20
120kobe1611200001.jpg120kobe1611200002.jpg120kobe1611200006.jpg120kobe1611200014.jpg120kobe1611200003.jpg120kobe1611200018.jpg120kobe1611200011.jpg120kobe1611200019.jpg120kobe1611200021.jpg120kobe1611200020.jpg


posted by utumitansui at 15:24寫眞

淡水日記スマホ06

_20171017_142016.JPG
大阪の街を徘徊するときは、天丼を食べる。
京都の街を徘徊するときは、牛丼を食べる。
食欲旺盛な徘徊老人があれこれ眺めては自己批評してる。
山野の中を徘徊なら清楚なイメージだと思うけど。
街の雑踏のなかを徘徊するのは性癖なイメージですよ。
武士道とは死ぬここと見つけたり、なんて言ってたなぁ。
そんな心意気なんてぼくにはなくて、死を恐れていますよ。
色艶枯れて、なんて想像の領域であって、年齢とともに旺盛だ。

淡水雑記171109

120kyoto1711050010.jpg

 京都の観光地へ行くと、なんだか着物姿の女子がやたらと多いですね。西の観光地、嵐山へ行きましたが、レンタルの着物を着て、京都の土産に漬物を買う、なんて光景に出くわしました。漬物が、どうして京都を代表する土産になったのか、それは、ぼくには、どうしてだかわからない。まあ、でも、イメージを作りあげるディレクターがいて、長年にかけて京都イメージの中に組み入れてきたんだと思う。漬物でいえば、千本通りの今出川から寺之内にかけて漬物屋さんがあります。ぼくの子供の頃には小さなお店という感じで、お漬物屋さん。いまや、観光ブームに乗ってかどうかは知らないけれど、有名店になって、店の構えもいかにも京都というイメージで造られているんですね。イメージを作るかというのは、いまや、表現の基本でしょうね。

 作られたイメージの町、京都です。長年、というか生まれてこのかた、京都に住んでいる自分としては、観光客にもなりきれず、地場の住人にもなりきれず、なんともはや中途半端な気持ち、つまり居場所がない感じがしてならない。京都の人間には、表と裏があって、複雑系だと言われているようですが、別にそれは理屈であって、人間には、そういう側面があるのではないでしょうか。特に近代以降の人間といえるかどうかわからないけど、偏屈で、内面で何を思っているのかわからない。たぶん文化度という尺度で計ったら、内面の発達というか、自分を考えるサイクルがあるんじゃないか。自分を考えるサイクルって、内面そのもので、他者が介入する余地がない、そういう領域、内面ですね。話がとんでもないところへ来てしまいましたね。

 人間の本能って生存するための条件を手に入れるために為すことで、食べること、生殖すること、そのために外観を飾ること、本能から派生してそれを実現するために競争原理の中に放り込まれる。人間には個々に資質というものがあって、闘争心の強いやつ、そうではないやつ、弱いやつ、そういうやつは生きにくい、負け犬ということか。どうなんでしょうかね、そういう強弱のある世の中、いつごろから生じているんでしょうかね。弥生時代になって、農耕が営まれるようになって、階級が作られてくると読んだことがありますが、それに先立つ縄文時代には、平等だったのか、あくまで想像にすぎないけれど、共助の精神だった、というけれど、闘争心は本能ではなくて、作られてきたもの、そうかなぁ、そうかも知れないけど、たぶん、生きる極限においては、力の強いやつが生き残る、でしょうね。


淡水雑記171105

_20171105_140557.JPG

 訪ねた相手は不在であった、なんて太宰の小説の一説を思い起こします、斜陽でしたか、かず子さんでしたか、すがるような気持で訪ねた相手がいなくておうどんを食べる、という場面があったんですけど、それに似た気持ちでした。太宰といえば、ぼくは女生徒という作品がお気に入りでした。でした、という過去形ではなくて、たぶん今もお気に入りのはずです。というのも太宰の女生徒に触発されて、ぼくの現在の小説の大半が書かれたものだ、と自認しているから、そうおもうわけです。太宰がいまもって若い世代の人たちに読まれているということは、そういうことなんだろうか、癒しの文学、壊れいく精神を支えてくれる文学、小説、問いっていいのかも知れません。

 人間失格という、あの恐ろしい気持ちにさせる小説があるじゃないですか。もちろん、個人差があるとは思うけど、その子は、友達たちが言うほど、驚かなかった、と言った。それは、その子の魅力というか小悪魔的な感覚にさせる要因だったのかも知れません。老人の心をしだいにわしづかみにして、ああ、まるであの女生徒みたいに、見え隠れしながら、ぼくを深く傷つけて、どうしようもなく狂うほどに、繊細に、生命の起源を鋭いナイフで切り裂くようにして、きたじゃないですか。なんだったのだろうか、リセットしても、イメージだけは残されて、あとは時間が過ぎれば遠くの果てに行ってしまうとは思うけど、まだまだ、そこにまでは至っていません。

 もくろみの形としてはできたところですが、中身が伴わないからでしょうか、なんの肩書も捨てた人に興味を示してくれたとしても、くる人なんていないことがわかって、ここでまたリセットしながら、新しい関係を結べる可能性のところへ、船出しようとした矢先のことでした。失意のうちについえ去るのは、どうしてもできないから、せめて人生これでよかったといえる結果がほしいところです。内面の物語は、表現の対象になります。フォトハウス表現塾、ここに行き着いた旅人として、それがどのような形で残せるかということです。残された年月、時間、そんなにあるとは思えないから、切羽詰まってくるのでしょうか。もうやり直しがきかない、最後の砦だと思えるのです。久々に太宰のことを思い出しておりました。